신선한 미풍

저는 일본어전문가가 아닙니다. 본문

가르침의 글(高橋信次)

저는 일본어전문가가 아닙니다.

어둠의골짜기 2021. 8. 21. 13:46

사탄으로부터의 통신, 이란 내용을 복사해 가신 분이 계셨습니다.

 

https://gall.dcinside.com/board/view/?id=mystery&no=1201300 

 

옛날 일본 영능력자 다카하시 신지가 악마에게 이런 말을 들었다 한다 - 미스터리 갤러리

아무리 생각해도 기독교의 악마, 루시퍼라는 자는 분명 불교의 타화자재천자마인게 틀림없다물질세계 꼭대기에 앉은자, 그 자가 바로 마왕이다물질번뇌가 사실 마왕의 정체인것같다는 생각이

gall.dcinside.com

 

다행히도, 이 사이트에서 관리자이신지 모르지만, 일본어 원본을 같이, 제가 번역한(저는 전문가가 아닙니다), 

고졸 출신에 그것도 상업계이며, 

중증 빙의로 아플 때, 다카하시 신지님의 글들을 통해서, 

저승과 이승의 관계, 인간이 어디서 와서 어디로 가며, 왜 여기에 태어났는지, 그리고 기타 등등

지구상의 4대 종교의 목적과 

석가, --------------------> 훗날 불교(깨달음에 이르는 길)을, 부처님의 가르침이란 식으로 변한 듯. (佛敎)

모세, -------------------> 구약성서, 모세오경을 비롯한 구약의 책형태로는, 기원전 약 500년 전후 기록이 아닐까?

예수그리스도----------> 예수님 사후, 제자들이 기록함.  몇 십 년 후..

마흐메트--------------> 이슬람교의 창시자. 서기 약 400년에서 500년 사이, (대천사 가브리엘의 천상계에서 지도함)

 

 

제 병이 2012년인가 2013년 11월에인가, 나았습니다.

 

제 블로그 『가르침의 글』(다카하시 신지, 高橋信次) 와 『일기형식』과 『한결같은 일본인』(여기는 다카하시 신지님 당시에 제자 혹은 gla관계자 및 관련되신 분들이 쓴 글들)이 있습니다.

 

 

위 사이트에, 제가 직접 일본사이트에서 가져와서, 올린, 글이 소개되어 있습니다.

 

출처는, 없더라구요. 

제가 폰트를 달고, 제가 번역한 글입니다.

물론, 번역상에 실수가 있을 수 있습니다..............전문가가 아니니까요.

 

그래서, 늘 말해왔듯이.. 반드시 일본어 원본과 함께 님들이 블로그나 카페 등등이 올리세요, 라고 말한 바 있습니다.

이유는, 일본어 전문가가 있으면, 원본이 내용을 정확하게 해석해서, 읽을 수 있으니까요. 그 까닭입니다.

헌데, 예전에 몇 년 전에 보니까, 일본어 원본을 뺀, 저의 서툰 번역이 된 글 자체로만, 소개하신 분들이

더러 보이시더라구요.

 

위 사이트, 밑에 댓글이 몇 개 보였어요.

제가 댓글을 달 수는 없었습니다. 그 사이트도 계정이 필요한 듯 해 보였습니다.

 

일본어에 능통하신 몇 분께서, 

번역에 틀린 부분이 많다고, 해 주시었더라구요.

 

이 점을, 높게 평가합니다.

아무튼, 저의 한국에 이번 생에 태어나서, 잘 나가다가 귀신들려서, 10여년 간, 전국 방방곡곡을 누비며, 

미친 짓을 하다가, 여기까지 오게 되었습니다.

여기란, 다카하시 신지(高橋信次)님을 한국에 알리게 된 계기가 된 셈이 되었다는 것입니다.

 

혹시 관심이 있으신 분들은, 

 

http://ccopcop.blog.fc2.com/

 

インターネット正法

「心の故郷に帰れる人」2016年6月19日 ・・・この私達の心の故郷には、裁く心を持つ人は入れません。この心の故郷は神の心につながる所の心の故郷であるからです。神の心は何も裁かない

ccopcop.blog.fc2.com

 

또,

http://tenshinosairai.seesaa.net/

 

「天使の再来」

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tenshinosairai.seesaa.net

 

천사의 재래, 문서 파일이 올려진 일본 사이트입니다.

제 블로그에 있습니다. 번역해서, 제가, 서툰 제가. 늘 서툴다고 말하는 제가.

직접, 워드패드에......글자를 일일이 한자로 표기하고, 일본어 히라가나, 가타가나를 다는 식으로 해서, 

편집, 편집, 하면서, 몇 년이 걸려서 완성해서 올린 글이기도 합니다.

물론, 당시는, 귀신이 들렸던 때였습니다.

그 후, 재번역, 재번역을 거듭했었지요.

병이 나은 후에.. 아마도, 2016년 이후에, 재번역들을 많이 했습니다.

 

다 비상업적이며, 저작권이 없이 표시했었습니다.

 

또, 많습니다. 

 

http://yukis0000.blog78.fc2.com/

 

ゆきのひとりごと

 

yukis0000.blog78.fc2.com

 

유키 (남자인지, 여자인지 모릅니다, 사람 이름인지, 별명인지) 아무튼, 

유키의 혼잣말, 이라는 사이트인데요.

다카하시 신지 관련 글들을, 

이곳에서, 초기에 엄청나게 글거와서, 번역,번역, 번역을 거듭

왜냐?

아프니까, 마음의 병, 귀신들림, 일상 생활 불가, 사회 생활 불가, 의식주 해결 불가, 지구상에서 왕따 당함,

가족과 친족과 친구가 다 멀어진 상태, 노숙자 생활....등등

 

이 사이트의 수없이 많은 절판된 책들과 글들을 통해서, 차츰.

나의 마음의 상태와 병이 원인과 기타 등등을 알아가기 시작하게 되었지요.

 

유키의 혼잣말, 사이트에 들어가면, 별의별 관련 사이트로, 링크가 되어 있어서, 

관심이 있고, 

일본어에 능통한 사람이거나, 혹은 아무튼 도움이 될 것입니다.

 

 

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/cat_50032.html

 

大摩邇(おおまに) : 高橋信次先生講演

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひ

blog.livedoor.jp

이곳에 글은, 번역을 안 했구요. 그냥 읽기만 했습니다.

 

현재, 2021년 8월 현재, 2020년에서 2021년 현재까지는, 번역글이 없습니다.

더 이상.

일본에 소개된 신지(信次)님 글들이 거의 게시한 사이트가 거의 없더라구요.

아,

위에 있긴 있어요.

음성 녹음 파일들이 있더라구요.

많아요.

 

저는 기키도리, 즉 유창하게 일본어를 귀로 듣고서는, 해석이 딸려요.

그래서, 글로 올려진 것을 신뢰해서, 제 병이 나으려고, 올린 것들이었지요.

 

사실, 제 블로그의 글들, 

몇 년 전에, 폐쇄 하려고 했었어요.

 

어느날 갑자기, 괜히 짜증이 밀려오더라구요.

 

누가 와서, 댓글을 달았는데, ......저를 아주 심하게 비판, 하는 것입니다.

제가, 

돈 벌려고 올린 것도 아니고,

제가 뭐 내 자랑하려고 올린 것도 아니고,

상업적으로 올린 것도 아니었고,

그것도 의식주가 해결된 상태에서, 탱자 탱자 놀면서 편안하게 올린 것도 아니고,

 

아프긴 아픈 데, 병명을 모르겠고,

돈도 없고,

이 세상이란, 다 돈을 달라대요..

병 고쳐 줄께, 그럼 돈 줘, 몇 천만원, 굿 해줄께, 몇 천만원....이더라구요.

 

그래서, 내 병은 내가 고친다, 해서....기억하려고,

블로그에 기록해 두었던 게, 

여기까지 온 것입니다.

 

역시 저도 의문이 있고, 그 의문을 해결하기 위해서, 깊게 들어가 보기 위해서, 찾다가 찾다가, 찾아서,

블로그에 올린 것이에요.

 

특별한 사명, 없어요. 

몇 년 전에는, 아, 내가 특별한 사명이 있구나..

아, 

정법을, 신의 진리를, 회복된 붓다의 가르침, 예수님의 가르침을 전할 사명이 있게 된 셈이구나, 한국에...라는 식으로

위로를 하기도 했지만,

 

사실, 제 블로그 방문 통계를 보면, 통계 방식은 모르겠지만, 

일주일에 평균 80여명이 오시데요.

 

그냥, 돈 버는 사이트도 아니고,

전화 상담, 형식으로 계좌번호 올려서, 유료 상담을 한 적도 없고,

한국 여러 사이트를 보니까,

좀 안다?

이세상의 것이 아닌, 영적인 것, 혹은 불교 지식, 무속의 지식, 기독교 지식, 귀신관련. 

치료이던, 그냥 상담이건, 완치건, 미흡하건, 

다, 내 말 몇 마디 들어 보려면, 

전화해서, 

돈을 지불하세요......라고가 많은 게 현실이더군요.

 

저요, 돈 달라고 해서, 상담해 준 적 없어요.

제가, 아는 것, 다 말해 드렸었어요.

 

제가, 고 다카하시 신지님(1976년 사망, 48세)

http://www.shoho2.com/index.html

 

 

http://www.shoho2.com/s2-8sinkounosisin.html

 

S1信仰の指針

高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします 法 語 集   園頭広周 先生 信 仰 の 指 針 ・・・ 正しい信仰のための101章 高橋信次先生のことば   

www.shoho2.com

 

法 語 集   園頭広周 先生
信 仰 の 指 針 ・・・ 正しい信仰のための101章

 

아주 길어요. 이것도 올렸어요.

불교쪽 관련자 분들은, 새로운 뭔가 이상한데, 뭐가 맞지?라는 분들은 좋아할 내용이에요.

 

제 블로그에 번역되어 있어요.

 

저요, 그냥, 읽으면, 뭔 말인지 알아요, 다, 일본말은, 웬만하면,

대충,

아, 이런 말이구나,

 

헌데, 이왕 게시하는 것이라서,

어려운 말이나, 특수한 영적 용어들은, 그 나라의 말이나 특유의 정서상, 그 속뜻을 알고 싶어서, 찾고 찾아서,

※ 표시를 하며, 올려 놓았었지요.

 

 

다 소용없데요.

어느날 갑자기.

 

저요, 한국에, 제 사이트의 글들을 복사 및 스크랩 및 방문자님을, 딱 2명만 직접 만나 보았어요.

 

다른 분들은, 몰라요. 누구인지, 어디에 사는지, 전혀 몰라요.

그래서, 다 지워 버릴려고,

아주 많이 비공개한 것도 있고, 물론 비공개한 부분은, 다시 편집해서, 

하나로 엮어서, 

올려 놓았지요. 

 

볼래요? 엄청 길어요.

 

예전에 어떤 분이, 한국에 진짜로, 일본어 전문 번역가들이 많아요.

잘 배우고, 

똑똑하고, 

의역 및 표현법이 아주 좋은, 

토시 하나 틀리지 않고, 완벽하게 번역하는 사람들 많아요.

 

책이 읽고 싶으시데요.

저는요 대화체는, 굉장히 번역하기가 힘들어요.

일본어 사투리 및, 구어체는, 정말이지, 머리가 아파요............아주 엉망진창이에요.

 

그냥, 아 그런 뜻이구나, 정도로만 이해했죠.

헌데 왜?

 

여러분들 중에 누군가, 비공개, 블로그가 아니니까, 

볼 거 아니에요?

그쵸, 

그래서, 말투를 정중하게 쓰다 보니.....분명히, 오역이 있어요. 당연해요.

그래서,

...일본어 원본을, 중시해 왔고,

ㄸ, 그냥, 괜히 

공개했네. 그냥, 다 없애 버리자, 했던 거였고.

볼래요.

 

지금 아래 글들은, 그냥 원본입니다.

자, 알아서들 해석하세요.

 

시작합니다.

 

 

法 語 集   園頭広周 先生


信 仰 の 指 針 ・・・ 正しい信仰のための101章



高橋信次先生のことば     『正法』 誌 1980年1月17号より


- 法 (ほう)-

 法とは正しい秩序をいう。
 法とは氵(さんずい)に去ると書く。氵(さんずい)は水だから、法とは水が去るということになる。水は低きに流れ、高きに流れることはない。低きに流れることが自然の理に適い、自然の秩序に、したがっている。水が去ることは、水自体が自然の条理適って生きているので、水の姿は、自然の秩序を表わしている、ということになる。
 漢字は自然のさまざまな形を型どってつくられただけに、事物や事象を実によく表わしているといえよう。

 さて水は低きに流れることによって、常に、清らかだ。山水の流れは冷たく清い。自然の条理にしたがい、低きに流れるから清く澄んでいる。もし、この水の流れを止め、一ヶ所にとどめるとすれば、水質は汚れ、飲み水の用にはたたなくなってくる。
 人の心もこれと同じなのだ。物に執着し、とらわれが多くなると、心は汚れ、ものの用に役立たなくなってくる。ねたみ、ぐち、そしり、いかり、足ることを知らぬ欲望は執着の表われである。執着があるから心にこだわりができ、苦しみをつくる。

 法とは、心に執着をもたぬことだ。とらわれをつくらぬことである。ここで注意したいことがある。それは、とらわれについてである。
知識が先行すると、とらわれという意味を曲解し、好き勝手なことをしても、とらわれなければよいというふうに考えることである。ここでいうとらわれとは、物に執着しないことであるが、同時にそれは、法にしたがうことを意味している。ところが人によっては、とらわれなければ、したい放題、やりたい放題にしてよい、というふうに考えてしまう。とんでもないことである。
 
 法とは秩序だ。循環の秩序をいっている。秩序とは調和であり、中道の心であり、慈悲と愛の神の心のよりどころにして維持されている。身勝手なことをすれば相手が迷惑をするだろう。その迷惑の波動は、身勝手な人に蹴ね返ってこよう。本人はとらわれがないといっても、身勝手な波動は発信者に返ってくるのが法の掟である。他力信仰者は、えてしてこういう考えになり勝ちである。
よくよく自戒しなければならない。

 正法は自力である。その自力も我欲をもとにした自力ではない。八正道という反省をもとにした自力行であることを胆に銘じてほしい。


 

法 語   『正法』 誌   1978年9月創刊号より

  高橋信次先生は信仰の真髄を説かれたのでありますが、本の中にはあちこちに飛び飛びに書かれたりしてあるために、そのことがそれほど大事なことであるかどうかに気づかずに読んでいられる方が多いようであります。それで皆さんにわかり易く解説することにいたします。


第一章 神に感謝せよ

 私達は宇宙創造の神さまが造られたこの宇宙の中に、神さまの生命に包まれ、その神さまの生命に支えられて神の子として生かされているのであります。物質として現われているものも、それは、物質という形に現われた神の生命であります。森羅万象悉くは神の生命であることをお釈迦さまは、「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」といわれたのであります。

 私達が我を捨てて、自分の心の波動を、大宇宙大神霊の波動に合わせて、自分の心を自然のあるがままの姿に還したときに、はじめて心の安らかさが得られ、真理を自ら知ることが出来るのであります。大宇宙大神霊に波動を合わせるということは即ち、神さまに対して心から感謝を捧げることであります。


第二章 神に感謝せぬ者は光の指導霊の指導を受けられぬ

 高橋信次先生は、「光の大指導霊或は光の指導霊の指導をうけるには、その前に大神霊を拝してから調和をよりよくお願いすべきである」といっていられました。
 神に対して感謝することもさせずに、いきなり「あなたの守護霊がこういっています」と指導している人達がありますが、そういう指導はまちがいであります。「守護霊さま、お守り下さい」と、いくら一所懸命に祈ってみても、その人の心の中に、神に感謝する心がなかったら守護霊は聞いてくれないのであります。たとえあなたが、特別に「守護霊さま、お守り下さい」と祈らなくても、あなたが、心から神に感謝していられるならば、指導霊や守護霊は、その心の状態を「よし」とみて、あなたに霊感、直感を与えるのであります。波長は神に合わせなければいけないのであって、人に合わせるのは、その人と調和することにはなっても、神とは調和しないのであります。


第三章 心の安らぎは神から生まれる

 正しいことの基準は心に安らぎがあるかないかであります。
 あなたが、いくら人に波長を合わせてみても、真の心の安らぎが得られないのは神に感謝し神に波長を合わせないからであります。心の安らぎは、神の光りがあなたの心にとどいた時に生まれるのでありますから、心の安らぎを得るためには神に波長を合わせなければいけないのです。神に波長を合わせるとき、神の心は光となってあなたの心の中にとどくのです。正しい指導者は神に波長を合わせることを説くのです。神に感謝し神に波長を合わせることに信仰の根源、信仰の本質があるのです。


第四章 神に祈ること

 暇があったら敬虔な気持ちで謙虚に神に祈りを捧げなさい。心を神にふりむけて祈るとき瞬時にして神の光はあなたの心の光となって、その心の光の中にあなたの身体は包まれてしまいます。オーラーというのは、あなたが、どれだけ神に感謝しているかという心の程度によって現わされてくるところの、神からの光なのです。
 「神さま、ありがとうございます」と心から唱えられると瞬間的に心に安らぎを覚えられるでしょう。安らぎは、私達の魂に光が伝ってきたときに起る現象なのです。
 朝起きた時、夜休む時、仕事を始める時、仕事が終った時、或は道を歩るきながら、祈ろうと思えばいつでも祈ることが出来ます。 皆さんは、いつも、神に感謝の祈りをする人となってほしいのであります。


 

法 語   1978年10月2号

週のはじめに一章づつよんで、その週の実践目標としてください。目標を持たないところには幸福はありません。


第五章 神は秩序である

秩序ということは、上があり下があり、右があり左があり、すべて物ごとには順序があるということであります。
 あの世が、心の段階によって、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界と分かれているのも秩序です。神に感謝するということは同時に、神の秩序を重んずるということにならないといけないのであります。ですから、祈りにも秩序のある祈りが必要なので、高橋信次先生は、「大自然の波動と生命」の中につぎのように書いていられます。

 「これらの如来(上段階光の大指導霊)、菩薩(上段階光の指導霊)は、神に人々の心を伝える現神であり、その前に、大神霊を拝してから、調和をよりよくお願いすべきであります。」

 秩序のある祈りの仕方が大事であるから、「祈願文」はその秩序の通りに書かれているのであります。


第六章 正しい宗教指導者とは

 正しい宗教指導者は必ず「神に調和せよ」「神に波長を合わせよ」と説くのであります。「神を信ぜよ」「神に調和せよ」と説かない宗教は邪教であります。
 例えば、日本の仏教々団の中には、その教団の、ご開山上人を一所懸命に信じさせて、大宇宙大神霊のことを少しも教えていない教団があります。これでは正しい宗教、正しい信仰とはいえません。阿弥陀如来とか観世音菩薩を一所懸命に拝んでいても、その心の中に、大自然を創造された大宇宙大神霊に感謝する心がなかったとしたら、それは正しい信仰とはいえないのであります。

 あの世が、大神霊、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界という秩序あるしくみになっているということは、お釈迦さまがお説きになって以来、はじめて高橋信次先生が明らかにされたのであります。このことの重大さに気づいていない人が多いのは残念なことであります。


第七章 自然に感謝せよ

 お釈迦さまは、「なにもかも美しい、生命の躍動が手にとるように感じられてくる。 あの森も、あの河も、町も、地球も、明星も、天体の星にも、神の偉大なる意志の下に、息づいている」と。

 この大自然が、神の創造であり、神のからだであることに気づかれ感謝されてから悟りに入られたのであります。 「神さま」と感謝する心の中には、「自然に感謝する」心がないといけません。周囲にはきれいな自然があるのに、その自然の美しさにも気づかずに、夢中で、お百度を踏んでいる人の心の中は、あわれであります。自然を尊ばない心が自然破壊を来しました。


第八章 大地に感謝せよ

 天を仰いで神に感謝する人はあっても、大地にひれ伏して、大地に感謝するという人は少ないようです。
 キリストが、「神よ、神よと呼ぶもの、必ずしも天国に入ることあたわず」といわれたことの中には、神に対する敬虔さ、謙虚さがなければいけないということも教えられたのでありますが、神に対する敬虔さ、謙虚さが欠けては、また正しい指導者とはいえません。
 大地も神が創造されたのであり、この大地の上にわれわれは生きているのでありますから、この「大地」にも感謝をしないといけません。神に対する敬虔さ、謙虚さは、大地にひれ伏して感謝する心から生まれてくるものであります。日本の多くの宗教指導者は、大地に感謝することを忘れているようです。宗教指導者達が、どこか一ヵ所に集まって、大地にひれ伏して神に感謝するという行事をしたら、日本の宗教界も大きく変るでしょう。



法 語   1978年11月3号

 法語とは真理のことばであります。あなたがこの法語の意味をよく知り、この通りに実践される時、必ずあなたの上に心の安らぎと幸せをもたらす言葉であります。祈りについての高橋信次先生の言葉を解説いたします。


第九章 祈りとは

 祈りは人間が、あの世、天上界(実在界)から地上に肉体を持った時から始まります。
 霊のふるさとである天上界では、“祈り”は即行為となっているので、殊更に祈らなくてもよいのです。思うこと、考えることが、そのまま祈りとなって神仏と調和しているからです。ところが、人間は肉体を持つと、天上界で持っていた心を忘れ、五官に左右され六根にその身を、心をまかせて煩悩に己れ自身を埋没させ、自我に生きようとします。
「苦しい時の神だのみ」というのは、現実の自分がもうどうにもならなくなった時にどこに救いを求めればよいのかというと、それは「天上界」「あの世」である、ということを知っている本当の自分が、霊のふるさとである天上界、あの世のことを思い出して祈る行為なのであります。


弟十章 虚心に祈ること

 自分の慾望からでなくて、そうあることが自分自身の幸せだけでなくて、関係のある周囲のすべての人々の幸せであるということであったら、堂々と祈りなさい。
 キリストは、「汝ら神に祈る時、頭に灰をかむり、しかめ顔するな」と祈る時の心のあり方を教えていられます。これは、「私は憐れなる者であります。この憐れなる私に恵みをお与え下さい」というような、泣きつく祈りはしてはならぬ。そういう実現しないということを教えていられるのであります。
 日本人には、信仰深き者は、いつも「わたくしは、あわれなる者であります。罪深き者であります。悲しい者であります。」と、自分をみじめだと思っていないと本当の信仰者ではないと思っている人が沢山ありますが、それはまちがっています。
 人間は霊であり神の子であり、過去の転生輪廻の中ですばらしい体験をして、豊かな内在された智慧を持っているのであります。だから、現実的にはまだ実現してない、いろいろなことが一ぱいあるけれども、実際は内在された豊かな智慧を持つことのすばらしい神の子であるという自覚を持って、それをそのまますなおに認めて祈らないといけないのであります。


第十一章 祈りが実現する道

 これまでの日本の宗教指導者は、祈ったことが実現するとすぐ「神さまが祈りを叶えて下さった」といってきました。それはまちがいであって、天地宇宙を創造された神さまが直接一人一人の祈りを聞いて下さるということはないのであります。天上界は如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界という段階があり、一人一人にはその人の守護霊、指導霊があります。その人が煩悩にふりまわされていた自分を反省して懺悔し、虚心に祈った時は、その人の守護霊、指導霊が救ってくれるのです。守護、守護霊に力がない場合には、その守護、指導霊が、より高い次元の光の天使に頼んで救い手をさしのべて下さるということになるのであります。


第十二章 遠隔思念が動く理由

 遠くにいる人のために祈って、その祈りが聞かれたという現象は、祈った人の念が直接先方の人にとどいたのではないのです。この点もこれまでの日本の宗教指導者はまちがっています。これは祈る人の守護、指導霊が、祈られる人の守護、指導霊にその念を伝達するのです。祈る人も心をきれいに安らかにして祈らなければいけませんが、祈られる人も心をきれいにしてその祈りをすなおに受ける心になると、祈りの念を受けた守護、指導霊が、その人の心の内側から囁いて教えてくれるのです。



法 語   1978年12月4号

法語はあなたに悟りの目をひからせる言葉のエッセンスであります。何回でもくりかえして、心に残るまでよんで下さい。一年の終りに反省してみましょう。


第十三章 反省とは

 反省は心をきれいにして、明日へ未来へと新しく前進するためにするのであります。
 過去をふり返って反省して、感情的な涙を流すことに自己陶酔して、明日へと前進する勇気と希望と、そういう心が持てたことに感謝する心が湧かなかったら、それは正しい反省ではありません。
 反省したがために、かえって心をせまく暗くしている人があります。勿論それはこれまでの、まちがった指導者、講師の罪でもあります。
 反省は自分が神の子(やがて宇宙即我に到達するところの自分)であることを悟るための前段階としてするのであります。


弟十四章 反省は智慧でせよ

 GLAの反省研修会に参加した人達の多くは、生まれてから現在までを、感情で反省して感傷的な涙を流しました。涙を流す反省は心をせまく小さく暗くします。智慧によって反省して流す涙からは、真我が自覚され、心は広く大きく豊かになり、前途に明るい希望を持ち、喜んで努力する勇気が湧いてきます。
 お釈迦さまが説かれた教えは智慧の教えであります。法に照らして自分の在り方を自分で決定してゆく智慧を働かせるとき、そこに神の慈悲を発見するのです。智慧のない慈悲というものは本来ないのです。慈悲という名によって智慧を働かせることをさせない宗教は邪教であります。拝ませること、人を信じさせることは、その人から智慧の働きを奪ってしまうからいけないのです。

感傷的な涙を、智慧の涙に変えゆくとき心の中から光りが輝いてきます。


第十五章 反省と業と運命

 過去を反省して、同じような失敗を何回もしていたら、それがあなたのいちばん心を決めて修正しなければならないカルマです。カルマは身、口、意の三業によってつくられますが、身、口、意の三業も、元は、一つの心の働きであります。自分の心がつくり出したものでありますから、カルマを変えるのは心のあり方を変える以外にありません。
 運命はその人のカルマの現れですから、運命を変えようとするには、心の持ち方、あり方を変える以外に変える方法はないのであります。運命を変えようとして、心を変えずにいくら拝んでも祈とうしてもらっても、運命は変りません。拝んでもらったり祈祷してもらうと金がかかりますが、自分で自分の心を変えるには金はいりません。
 もっとも、カルマには善いカルマもありますから、よいカルマはますます伸ばせばよいので変える必要はないわけです。


第十六章 反省と止観と内観

 高橋信次先生は、「反省は止観」である。といっていられました。「止観」というのは「止の禅定」と「観の禅定」の二つの意味があります。「止の禅定」(とどまってみる)これは即ち普通にいわれる反省です。内観道場でやっている「内観」も反省です。これまでのGLAの反省研修会にも、また内観道場にも「観の禅定」の指導がありませんでした。「観の禅定」をしないのでは、高橋信次先生がいわれました本当の「反省」にはなっていないのです。
 「止の禅定」即ちいわゆる通俗的な反省だけでは、心を大きく広く豊かに明るくすることは出来ません。
 大牟田市の「正法有明道場」では、本当の反省禅定の指導をしておりますので、来年は一度は、大牟田での研修を受けて下さい。そうされれば、必ず、あなたは「人生の勇者」になられるでしょう。



法 語   1979年新年号 5号

 新しい年の、新しい自覚は、あなたが「神の子」であるということを、しっかり自覚して「天地一切に感謝」して下さることです。


第十七章 神は光りである

 お釈迦さまの悟りは、「大宇宙の始まりには、光明という神の意識だけがそこにあった」ということを知られたことによってひらかれました。キリストの悟りは、「神、光あれといいたまいければ光ありき、はじめに神、天と地とをつくりたまへり」ということから始まりました。仏教もキリスト教も、どちらも真理は一つであります。
 神は光であれば、神の子である人間も、もとより光でなければなりません。神が罪や悪をつくられたのではないのであります。真理即ち正法を知らない人間が、自分の心の歪みによってつくり出したのが、罪や悪であります。だから本来、神の世界には罪や悪はないのであります。自分は本来、「光りの子」であることをのみ瞑想して下さい。そこから、あなたも「宇宙即我」に到達することができられるのです。


第十八章 宇宙即我

 高橋信次先生は、「あなた達も宇宙即我に到達しなければならないのである」と教えていられました。お釈迦さまも、人間として到達しなければならない道を説かれたのであります。
  「意識が拡大すると、太陽をはじめとして星々(惑星群)が、すべて自己の意識の中で回転し、そうしてその中で呼吸する一切の生物は、わが肉体の一部であることに気付く。
 人は宇宙大の意識を持って生活している。肉体にその意識が小さく固まり、とどまるために、宇宙大の自己を見失ってしまうのだ」

                                      「偉大なる悟り」より。

 本来、宇宙即我であるからこそ、人間は、宇宙即我を悟ることができるのであって、それは、瓦をいくら磨いてもダイヤモンドにならないように、本来、ダイヤモンドであるからこそ磨けば光るのと同じことであります。


第十九章 偽我は自分ではない

 真理を知らない自分、法を知らない自分が偽我であります。日本人は永い間、「罪悪深重の凡夫である。」と自分のことを思ってきました。然し本当の自分とは、「そういうことは本当でない」ということを知っている真我なる自分が本当の自分であります。
 「自己の確立」とは、「真我なる自分」を自覚することであります。偽我なる自分を自分だと思って、この偽我なる自分をよくしようと思っても、それは手にくさいものを握って、くさくないようにしようと手をふり廻わしていることとおなじことであって、くさくないようにしようと思ったら、手に握っているくさいものを捨てればよいのと同じように、偽我なる自分は本当の自分ではなかったと心から放して、真我こそ自分であったと自覚の転換をすることです。


第二十章 真我こそ自分である

 心の大きさ、豊かさ、明るさは、永い輪廻転生によって、どの程度、真我なる自分、宇宙即我なる自分を自覚しているか、その自覚の程度によって決まるのであります。その自覚を深めるには瞑想禅定をしなければなりません。NHKの教育テレビ「瞑想の時間」で瞑想は、壁に張ってあるマンダラを半眼にみつめて無念無想になるとか、イメージを描いてそれに心を集中するという説明がありましたが、それはどちらもまちがっています。
 ヨガの瞑想道場の指導にもまちがいがあるようです。正しい瞑想禅定は、自分が神の子であり、真我であることを、念を集中するのでなくて、そのまますなおに認めることから始めるのです。その人の心の大きさによって心が肉体を離れて、肉体の自分を上の方から客観化できるようになります。



法 語   1979年2月6号

 法語とは真理のことばであります。あなたがこの法語の意味をよく知り、その通りに実践される時、必ずあなたの上に、心のやすらぎと幸せをもたらす言葉であります。


第二十一章 智慧と愛の調和

 慈悲とは、智慧と愛が統一され調和されたものをいうのであります。愛さえあればよいのであるといって愛だけを強調する宗教家がありますが、それはまちがっております。
 智慧のない愛は人をそこないます。智慧のない愛しかたをされた子供がどんなに非行化してゆくか?
この大宇宙が、秩序整然として一つの体系をもってつくられたのは神の智慧によってであります。人間や動物が吐き出した炭酸ガスを、植物が同化作用によってかわりに酸素を出すという相関々係をつくられたのも神の智慧であります。
 病気や不幸になっている人はあっても智慧が足りなかったのです。私たちの心の中には、過去の輪廻転生で得た智慧が内在されています。今まで「愛」という言葉のみを多く聞かされてきた人たちは、「自分は智慧のある存在である」ということを自分で自分にいい聞かせて下さい。


第二十二章 自分の内に内在していても「ある」ということを知らなければ、「ない」のと同じである

 「自覚する」ということは、「自分でそうだと覚る」ということです。「覚」という字は「悟る」ということです。「悟った人」のことを「覚者(ほとけ)」と書く場合があります。
 自分がどんなにすばらしいものを持っていても、持っているということに気がつかなければ「ない」のと同じであります。皆さんにはこういう経験があると思います。
 金がまだある、と思って買物しようと思った。品物を選んでいざ金を払おうと思って財布をひらいたら金がなかった。家に帰って、「たしかにまだ持っていた筈だ」と思ってポケットをあちこち探してみたら、別のポケットにまだ金が入っていたということが。
 これは実際は持っていたのです。持っていても、持っているということに気がつかなければなにも買うことができません。それと同じように、人間も、どんなにすばらしい智慧や愛をもっていても、「智慧であり、愛の存在である」ということに気がつかなければ、その智慧、愛を生かして使うことはできないのであります。
 人間はすばらしい智慧と愛の綜合された慈悲の霊的存在であるということを自覚しなさいと、お釈迦さまが説法されたのが、法華経の中に説かれてある「繋(けい)宝珠の譬」の話であります。


第二十三章 知ることの大事さ

「知識は実践した時に智慧となる」と高橋信次先生はいつもいっていられました。知識は実践した時に智慧となると同時にまた、知識即ち知るということを通して、これまでの永い輪廻転生の中で得た智慧を日常生活の上にひき出してくることができるのであります。
 知識を得るということをしなくてもよいとか、また、知識は必要はないといっている指導者がありますが、それはまちがいです。たとえば、自動車の運転にしたって、その運転の方法を知らないと運転できないではありませんか。ましてこの人生をどのように生きればよいか、それを知ることなしにはよい生き方もできないでしょう。だからお釈迦さまは、まず、「知る」ことをしなさい。知ったら実践しなさい。信仰は「知る」ことが大事だと教えられたのであります。


第二十四章「なるほど」ということ

 あなた方が何かを知った時、また教えられた時、「あゝ、なるほどそうか」と納得されるものがあるでしょう。その「なるほど」と納得するのが智慧の働きです。心の中に内在されていた智慧と、心の外に現象として現れているものとが内外相応した時に、「なるほど」とか「合点がいった」とか「うん、そうだ、それがほんとだ」とかと思うのです。
 また、はじめて知ったことを実際にやってみた時にも、「なるほど、こうすればよいのか」と思うでしょう。それは知識が智慧となったのです。
 知識は豊かであった方がよいのです。どんな人の話でも、どんな本でもよんで、悪いところは捨てて、よいところは心の糧にすればよいのです。
 知識を得ることを限定するのはまちがっています。「なるほど」と思うことが多いほど人生は幸福になるのです。



法 語   1979年3月7号

第二十五章 心の波長を合わす

 人間は本来、幸福という環境の中で魂を磨くようになっているのです。あなたにとっての幸せは、あなたが祈っても祈らなくても既に約束されているのです。その幸福になる道は、あなた自身がこの世に生まれる時に、守護霊と約束してきているのです。
 心の内から囁いてくれる守護霊の声に耳を傾けなさい。守護霊の声は肉体の耳に外から聞えてくるのではありません。外から聞えてくるのは動物霊か憑依霊です。また、心の内から聞えてくるといっても、あなたの心が乱れ騒いでいる時に聞えてくるのも正しくはありません。正しい守護霊の声は、あなたが宇宙創造の神に、天地万物一切のものに、すべての人に感謝し、自分が神の子であることを信じて、自分の過去の失敗や、自分の心の暗さにとらわれなくなった時に、心の内から聞えてくるのです。
 心の波長を合わせるというのは、神に、すべてのものに、そうして自分自身に対しても感謝できる心になることであります。静かに落着いた心になった時に、じっと心の内から囁いてくる声に耳を傾けて下さい。最初は小さくて聞きとれないくらいであっても、あなたが聞く習慣をつけられるならば、その声は次第に大きくなってきます。
 その内なる声の囁きを大事にされるならばあなたには人生の失敗はなく、常に幸福であることができるのです。


第二十六章 幸福は既に与えられている

 オカゲ信心は利己主義の心であります。利己主義の心は神に波長が合いません。オカゲ信心で、一時その人が豊かになったようであっても、その富は必ずその人を不幸にします。
 オカゲを望まない心になって足ることを知り、毎日を感謝の心で過すようになった時、必要なものは必ず与えられるのであります。
 感謝の心が報恩の心となって、それが心からの奉仕となった時の心の喜びが、あなたにとってもっとも必要な幸福の状態を、あなた自身がつくり出して行くので、既に幸福はあなたの心の中にあるのであって、ないものが外から与えられるのではないのであります。
 「心がモノをつくる」「心が運命をつくる」といわれていますが、自分の心を豊かに明るくした時に環境も自然に整ってくるのであります。オカゲ信心は、自分の欲望の達成のために神さまを利用しようという心があります。それは正しい信仰ではないでしょう。


第二十七章 分を知る

 人は生まれてくる時に、こんどはどういう環境の中で、どういう仕事をして、どういう体験をして魂を向上させるかを、守護霊と打合せて生まれてきます。その計画は生まれてきた時は潜在意識の中にかくされていて、現在意識の表面の心ではわからないことになっています。最初からそういうことがわかっていたら苦労せずにすむと思われますが、最初からわかっていたら、入学試験の問題を最初から教えられたことと同じで、本当の勉強になりません。こうするのが本当ではないか、ああするのが本当ではないか、といろいろな試行錯誤をくり返すなかから、本当の自分の生き方、あり方を知って行くようになっているのです。
 「あの人は分を知らない」とか、「あの人は分別がある」とかという云い方がされるのは、人にはそれぞれに為さなければならない本分というものがあるということであり、その為さなければならないというものは、生れてくる時に計画し、守護霊に協力を願って生まれてくるのであります。ですから、心に思うことがなんでも実現するのではないのであって、その人が生まれてくる時に計画した、その分の範囲内のことは実現しても、その分でないものは実現しないということになるのであります。だから自分の分を知るということが大事であります。


第二十八章 足るを知る

 「分を知る」ということは同時に「足ることを知る」ということになります。今の私達の人生は、宇宙即我に到達するための永い輪廻転生の中の一コマなのであり、ただ一回の人生だけですべてを悟りつくす、経験しつくすということはできないのでありますから、今度の人生では自分は何を為し、何を学ぶことが正しいのであるかをよく心の内に聞かなければならないのです。
 人には欲望があります。平社員でいるよりは社長がいい、と思うでしょう。では、「社長になって実際に会社を経営できるか」と自問自答した時に、自分の心に偽わりなしに「やれる」と云える人もあれば、「さてとなると、とてもできない」と思う人もある筈です。
 金もいまよりはあった方がよいでしょう。しかし、あっても使いこなすことができず、かえって心を墜落させ、また遺産として残したために子供が争うというようなものならむしろない方が幸せです。金は何万円以上持っていれば幸福で、それ以下は不幸だというようなものではありません。金もまた、人間が魂の勉強をして行くために、生活の便宜上つくり出したものの一つなのですから、金のために心を一喜一憂させることは本末転倒なので、足ることを知った安らかな心を知った上で、また金の必要性を知るということが必要であります。「祈ればなんでも叶えられる」と説いている宗教がありますが、足ることを知らない分を超えた祈りは実現しないのであります。祈りも分を知り足ることを知った上でしなければいけません。その祈りが、その人の分に叶うものであったら必ず守護霊をはじめ天上界からの協力があって実現するのであります。



法 語   1979年4月8号

第二十九章 天上界の協力を得るには

 私たちが天上界から援助される範囲は、私たちの理解の広さ、悟り、自覚の広さによって規定されます。私たちは神の意識そのものであり、輪廻転生の経験による智慧を持っています。自分が神の意識即ち神の子であることの自覚と輪廻転生の経験による智慧が、私たちの理解、悟りの広さであります。
 あなたが、いままでより以上に天上界からの援助協力を受けられるためには、新しい知識による新しい経験をされないといけないことになります。新しい経験を進んでする勇気と努力のみがあなたの悟りを広げてゆくのです。いままで知っていること、やってきたことのなかにだけ安住していたのでは少しも前進はなく、自覚も理解も悟りも広がってはゆきません。試行錯誤の課程を通じて理解も自覚も悟りも深まって、天上界からの新しい援助も得られるのですから、失敗を恐れずに前進することです。


第三十章 自分が自分を助ける

 失敗を恐れない新しい経験によってのみ新しい天上界の協力も得られるのですから結局、自分を助けるものは自分であるということになります。他力信仰をして、自分からは努力しない人が最後には失敗に終るのは、以上のような理由からであります。
何人(なんびと)も、私たち自身の代りになることはできません。自分のことは一切自分の責任ですから、自分のことを自分でしないで、人に代ってやってもらうとする他力信仰では、決して自分が救われないのです。光の大指導霊は、「現代はニセモノの指導者と欠点多き予言者達の時代である」と警告をしています。
 ニセモノの指導者とは、「人を救えば自分が救われる」とか、「祈れば、無限供給が得られる」と説く人たちであります。人の欲望に神を従わせようとするような教を説く人たちです。彼らは地縛霊と同様に人の心に不安を生じさせます。


第三十一章 欠点多き予言者とは

 欠点の多い予言者は、絶えず危機感、恐怖心を誘って天災地変がくることを予言し、人の心に安らかさを与えず、常に不安をかき立てます。ニセモノの指導者が同時にニセ予言者であるという場合が多いようです。
 正法を知っていられる方々には、人の心に不安を与えることがどんなに大きな罪であるかを知っていられるでしょう。ある宗教では、「日本沈没があるからメシアと呼ばれる特定の人間を信ずる人のみを救って、そうでない人は救わないというようなことをされることはありません。心が正しく法にかなっている人は助かるでしょうし、また、天災地変で無一物になるという経験によって、物質への執着をなくすることを学ばなければならない人もあるのですし、どんな時でも、どんなことが起っても不動心を持つのが正法です。


三十二章 あの世からの指導は

 高級な指導霊、また守護霊は、その人の自主性を無視して勝手に強制的に指導するというようなことはしません。「なぜ、天上界はあの人を正しく指導されないのであろうか」ということをよく聞きますが、その人がまちがった暗い考えをしているのを、無理矢理に強制して明るい正しい考え方をするようにはしないのです。高橋信次先生が、「如来、菩薩といえども心を暗くして地獄界へ堕ちるものもある」といっていられたのは、すべて人には心の自由が与えられているからです。
 どんな人も、自分の心の悟り以上には偉大ではあり得ないのですから、自分を偉大にするには、自分で自分を偉大に成長させる以外にはありません。日一日と自分自身を成長させることが、神と調和する実践の方法が「八正道」であります。
 高級な指導霊、守護霊は、その人を悟らせるように霊感を与えようと努力するのです。



法 語   1979年5月9号

第三十三章 作用と反作用

 物理学に於ける「作用と反作用」の法則は同時に心の法則でもあります。「凡ての作用には、大きさが等しく方向が反対なる反作用が伴う」この「作用と反作用」の法則を、心の面で表現したのが「善因善果」「悪因悪果」という「因縁」の法則であります。科学の法則と心の法則は一つであり、この一つの法則を創造して、心と物質とを同一法則によって活動せしめている大生命力、大エネルギーを宗教的には「神」というのです。法則は人間のほしいままな心によって左右されることはありません。この人は悪いことをしたが、前に善いことをしたことがあるから今度は少し手加減して悪いことが起らないようにしてやろうというようなことは絶対にないのです。その人の運命は、その人がこの法則を知っているにせよ知らないにせよ厳密にこの法則によってつくられてゆくのであります。


第三十四章 法則の管理者は自分である

 人間が神の子であるということは、「作用と反作用」の法則を自由にコントロールできる心の自由を与えられてあるということです。
あなたはあなたの今の運命がどうであろうとも、それはあなたが知っていたにせよ知らなかったにせよ、みなあなた自身の心が造り出したものであって誰をも怨むことはできないのです。怨む、憎むということは自分の運命の責任を他に転嫁していることです。自分が下手な絵を画いたのに、あの人が私にこんな下手な絵を書かせたと思って、自分ではなにもしようとしないのが、怨むとか憎むという心なのですから、怨む心、憎む心が自分にある間は運命は絶対によくならないのです。十年間の腎臓病が治られた大牟田の小柳さんは、「憎んでいる人があったらその人を赦しなさい。赦すことによって誰が一番幸せになるかというと、赦すことができたあなた自身である」という話を研修道場で聞かれて、「そうだ赦そう」と思われた瞬間から病気がよくなったのです。これをよまれた方で、もし誰かを憎み怨んでいたとしたら、その人を赦しなさい。そうすれば必ずあなたの運命はよくなります。われわれは、自分自身の運命の主人公なのです。


第三十五章 先祖の因縁ではない

 これまで日本の宗教家は、なかにあると「それは先祖の因縁だから、先祖の供養をよくしなさい」と指導してきました。一方では先祖に感謝しなさいと教えて、一方ではこのように説いてきたために、「自分が不幸なのは先祖の因縁だ」とか、「こんな病気をするのは先祖が悪いのだ」、「貧乏しているのは先祖が陰徳をつまなかったからだ」と、知らず知らずのうちに先祖を憎む心を起させてしまいました。この矛盾にも気づいていないばかりか、法を犯し真理を犯していることにも気づいていません。
 先祖の因縁が子孫にくることは絶対にないのです。先祖がしたことは、みな先祖が受取るし、あなたがしたことはあなたが受取るのです。あなたが一所懸命に信仰していて、どうしても自分の運命がよくならないとしたら、心の奥底で知らず知らずのうちに「先祖の因縁だ」と先祖を怨んでいる心があるのではないか、反省をしてみて下さい。われわれはみな心の自由が与えられているのです。自分の運命は自分の責任なのですから、あなた自身が努力されるとあなたの運命は確実によくなるのです。
 先祖の因縁だと思って、自分で自分の心を束縛していたその心の束縛から、あなた自身を解放して、大いなる心の自由を獲得しなさい。


第三十六章 光りのみが実在である

 神は光であり、太陽は光りです。暗いというのは、そこに光りがないという状態であるに過ぎません。悪とは、悪そのものがそこにあるのではないのであって、それは法を知らなかった、法を誤用した結果にしか過ぎないのです。だから、ここにあるこの「悪」をなくしようと思ってはなりません。法を知らず、また知っていても法をまちがって使った結果であるにしか過ぎないのですから、法を知って法を正しく使われると、それは善となって現われて、悪をなくしようと思わなくても悪の状態は自然に消えてしまうのです。神は罰を与えません。罰が当ったようにみえるのは、われわれが「作用と反作用」の法則、「善因善果、悪因悪果」の法則を誤用した結果にしか過ぎません。まちがって使ったら、今度は正しく使えばよいのです。どこがまちがっていたかを知るのが反省です。「知る」「反省する」という働きは智慧の働きなのですから、正しく信仰するには智慧が大事であります。智慧の大事さを説かない宗教は邪教です。



法 語   1979年6月10号

第三十七章 神の国と神の義とを求めよ

 キリストはそういわれたと聖書に書いてあります。いろいろな教団の指導者は、この言葉を巧みにすり替えて、教団のために奉仕することが、神の国を求めることであると説いています。私が前にいた生長の家でも、「第一義とせよ。第一義とは神の国と神の義を求めることであって、それは、生長の家教団のために寄付し、会員をふやし月刊誌を一括して百部買って、人に配ることである」といっていました。教団に奉仕することは自己満足にしかすぎません。キリストが教えられた本当の意味は、神の慈悲、愛は宇宙の真理となり宇宙の姿となっている。人間は神の子であることを知って神がつくられた正法を正しく実践することが、神の国と神の義とを求めることであると教えられたのであります。
 一つの教団の枠の中には入りこんで、その教団の制約の下でしか信仰しないという信仰はホンモノではありません。正しい信仰を求めるには、いまあなたがいられる教団の枠から外へ出られることです。


第三十八章 さらばその余のものは与えられるべし

 神の国と神の義とを求めることは教団の方針に従い、教団のために奉仕することであって、そうしたら、あなたの願いは叶えられ、あなたは幸福になるのであると、どこの教団の指導者も説いています。創価学会が大石寺を建てるとき、「いま一万円寄付すれば大石寺が建った時は十万円になって返ってくる」といって、わづか三日間で三百五十五億円集めた話は有名です。創価学会でこれを総供養といっています。大石寺は立派に建ちましたが信者は誰一人として金は返りませんでした。
 そういう事実がありながら、さらにその後総供養をやって千四百億円集めたといわれます。「出すとお蔭がありますよ」といって、出させる方もですが、出す方も出す方だと思います。これと同じやり方をどこの教団でもやっております。こうした金銭面からいえば日本の多くの教団は、信者が幸福になりたいと願っているその心を巧みに利用した搾取収奪団体だといえます。いづれ近くみなが目ざめて宗教界が大混乱を起す日が来ます。
 キリストがいわれましたのは、正しく正法を実践することを喜びとして生活していれば求めようとしなくとも自然になくてならぬ必要なものは整ってくると教えられたのであります。なにかを求める心を持って正法を実践するのはまちがいです。正しく正法を実践すること、それによって起る心の喜び、心の拡大、心の成長、心の豊かさ、それを喜びとして生活することをしなければいけません。そうすれば自然に必要なものは与えられるのです。


第三十九章 求めよさらば与えられん

 このこともまちがって教えられています。欲しいと思うものはなんでも祈りなさい、そうすれば与えられます、といって特に生長の家では「無限供給の祈り」といって教えております。「一億円すでに与えられてありがとうございます」と祈れば必ず与えられると、全国を説いて廻って人気を集めた有名な講師がありましたが、この祈りによって一億円儲けた人は一人もありませんでした。

 『天と地とを結ぶ電話』百三十八貢に
 「例へば高級指導霊達は次のように警告する、「得られる筈のないものを与えようと約束し、吾々凡ての者を魅きつける「無より有」を与へんと約束する「指導者」に注意せよ」大指導霊達は、そのような指導者はニセモノの指導者であると警告している、と書いてあります。
 キリストが求めよといわれたのは、神理を求めよ、切実に神理を知りたいと思えば必ず与えられる。いろいろな人が自分の前に現われて、また実際の自分の体験から、或は自然のたゝずまいの中から、必ず与えられると説かれたのであって、いまの日本の各教団が説いているような、なんでも欲望を叶えられるという意味で説かれたのではありません。
 われわれは、魂を偉大に成長させることを目的として生まれてきているのでありますから、死ぬ時に持って行けないような、地位、名誉、財産を求めて祈りをしてはならないのであります。


第四十章 正念と祈り

 ではどのような祈りが正しいのであるか。
 人生の目的は調和にあるのですから、足ることを知った心で、調和がくるように祈ることは正しいのです。念は願いであり、人は今日よりは明日はよくなりたいと願うからまた生きてゆけるのであります。
 ものを考える、ものを思うのは、われわれの心の中に一切を生み出す創造エネルギーがあるからであり、その創造エネルギーは宇宙創造のエネルギーが、あなたとなって固体化個性化したものでありますから、われわれは、その祈りが、神の心に叶っているかどうかを考えなければなりません。人間は誰しもが正しく生きようと思い、また今日よりは明日はよくなりたいという目的意識を持っています。
 自己本位でないところの、正しい目的にそった調和を求めての努力実践をしながら、その目的にそっての願いごと、祈りは、必ず天上界からの協力があるのですから、このような祈りは堂々としてよいのであります。
 九州のある方は、人間は努力すれば信仰などいらないといって、自己本位の努力をしていて何億という仕事をしていられましたが、見事に失敗されました。金廻りのよい時は出入りしていた人達も、金がなくなると来なくなりました。そうしてやっと正法を聞くことになりました。その人はいっていられました。 「わたしは三日間、正法を聞いて心のあり方が大体わかりました。よし最初からやり直しだ、と心に決めて祈ってやるようになりましたら、こんなに調子よくなってよいのかと、びっくりするほど調子がよくなって、人生に自信ができました」と。
 神の国と神の義を求め、且祈ることは正しい心のあり方、正しい神、正しい神理を教える正法、即ち歪められてないところの釈迦、キリストの教の原点にかえらなければいけないのであります。



法 語   1979年10月14号

四十一章 霊能力に片寄ってはいけない

 五月十三日「二十一世紀の宗教と科学」の大講演会が終った後の座談会で、日本PS学会理事の坂元邁先生が、ある有名な物品引寄せの霊能者の話をされた。私がその霊能者を知ったのは昭和三十六年であった。その人は仏像を出したり真珠を出したり、神前に供えた空の瓶の中に酒を出したりする。今でもその人が出した真珠など持っているが、その人がPS学会の科学者達の研究の対象になっているというのである。科学者が研究の対象にするのはよいことであるが、無知な信仰をする人達は、なにか不思議な霊能力を持っている人があると、盲目的にその人を神さまみたいに信じてしまう。多少ものを当てられたりするとなんでもその人に聞こうとして自分で判断するということをしない。それがヌミノーゼ心理である。正常な心理状態ではないのである。霊能力が可能だという知識をもったり、それを事実として認めても、霊能力を信ずる人が直ちに一層すぐれた人間であるということにはならないのであるが、ともするとその霊能力者に親しいとか言葉をかけられたとか握手してもらったとかで、急に人よりもえらくなったように思ってしまう人が多い。
 その人に近いからといって、なにもその人の人間性が急にりっぱになるわけではないはずである。


第四十二章 なにを学ぶか

 私はその霊能力者のところに三回行ってやめた。それはその人が、あてことばかりして法を説かないし、私の目の前で夫婦げんかを始めたからである。霊能力者も同じ人間だから、それは夫婦げんかもするさという人があるかもわからないが、客があって一方では神棚に向って祈りながら、なにもそんな時に夫婦げんかをしなくてもいいのではないのか?。その霊能力者も小さい時から苦労して滝に打たれたりして修行されたということであったが、社会的な良識、教養がないのである。
 高橋信次先生は、「その人のいっていることと、やっていることがちがっている人のいうことを信じてはならない」と、くり返していっていられた。
 ふしぎな霊能力があるということを知った人たちは、今までよりも広い視野を持ち、そのことにつづいて人生の神秘さについて、永遠に「なぜなぜ」と追求して、その知識は、その人に一層高い道徳をもち来たし、その上に調和ある人生を築くようになって行かなければいけないのであって、その霊能力を単に興味の対象としたり、またその霊能力者を神様みたいにしんじてしまうということはしてはならないのである。


第四十三章 無 記

 「あの世があるのですか」
 「魂はあるのですか」
 「あの世はどうなっているのですか」
 「神さまはあるのですか」

 このような質問を受けられたお釈迦さまはなんにも答えられなかったと、お経の中に残っているが、このことを「無記」というのである。その質問のあとで説かれたのは、
 「あなたたちは、神さまがあり、霊があり、あの世があるということがわからなければ、今日一日の生活ができないということはないであろう。われわれにとって大事なことは、今日一日の生活を八正道によって正しくして心を安らかにし、調和ある人生をつくり出して自分の心を大きくすることである。わからないからといって、今日一日の人生をおろそかにしてはならない。今日一日をしっかりと生ききりなさい」ということであった。
 このことがのちに大乗仏教時代になると、「あの世は空だといわれた」ということになり、現在、日本仏教が「無神論、無霊魂論」の立場をとっている原因なのである。
 お釈迦さまが天上界のことについて説かれたことは「生天論」としてのこっているのであるから、「無記」というところだけをつかまえて直ちに「一切は空である」と無神論、無霊魂論だというのはまちがいであるが、また霊能力だけに片寄り、霊能を得ようとして、毎日毎日の生活をおろそかにすることは尚一層いけないことで、それは、われわれが肉体をもって魂の修行に出てきた人生の目的に反するからである。


第四十四章 知識より体験が大事である

 いろいろたくさん知っていることも大事である。知らなければ実行することすらできない。正しく信仰する者は広い視野を持たなければいけない。心のせまい人が心を広くしようとするには、まず視野を広くすることから始めた方がよい。心のせまい人とは要するに視野のせまい人である。
 いわゆる「もの知り」といわれる、いろんなことを知っている人がある。しかしそういう人で人格的にはどうかと顔をしかめたくなるような人がある。「もの知り」の人の話は時には面白く感心することがあるが、深く人を感動させ、その感動がその人をして実行にまでかり立てるということはない。しかし体験して身体で覚えていられる人の話は、深い感動が、「よし、それなら自分もやろう」という行動にまでかり立てる力を持っている。
 行動実践によってのみ、心を大きく成長させることができるのであって、知識が心を大きく成長させることはないのである。だから話を聞かれるなら体験した人の話を聞かれるべきである。



法 語   1979年11月15号

第四十五章 泥んこ遊びはさせた方がよい

 幼児は泥んこ遊びや粘土遊びや、にちゃにちゃしたものをもて遊ぶのがすきである。幼児はそのにちゃにちゃした手指の感触の中に、おかあさんの膝に抱かれてお乳を呑みながら一方の手をおかあさんの胸にいれ、空いた方の乳房をまさぐっていたあの時の感触を感じ、その時に抱いた心の安らかさを味わっているのである。するなと叱られても幼児が泥んこ遊びをするのはその心の安らかさを味わっていると同時に、なんでも自分の思う通りにこね廻してつくれる創造の喜びを体験しているのである。服が汚れて洗濯の手間がかかるのをおそれて、子供に泥んこ遊びをさせない母親は、子供の大事な心の成長を妨げているのであり、泥んこ遊びをさせられなかった子供は心の安らかさを体験させられないから情緒不安定になる率が高いのである。落着きのないいつもはしゃいでばかりいる子供は母親によって心の安らかさの体験を奪われた子供なのであって、いくら「静かにしなさい」と叱ってみても治らないのである。これを治す道は、子供をしかと抱きしめて、母親の膝の上で心の安らかさを体験させる以外にないのである。


第四十六章 ミルクは抱いて飲ませなさい

 ソ連が共産党の闘士を育てるというので、生まれたばかりのあかちゃんを母親の手からひき離し、国家で養育するするということをやったことがある。これは完全に失敗に終りました。抱かれることもなく機械的にミルクをのまされた幼児達がハイハイをはじめるようになると幼児達はお互いに噛みついて血だらけになってしまって、その血の中を這いずり廻って相手を見ては噛みつくということをやり、結局育児を共産党主義的考え方と手段でやるのは失敗だということになり、母親の手にかえされることになりました。情緒不安定児、自閉症児は母親の膝に抱かれる時間が少なく、また母親がことばをかけることの少なかった子供達である。うちの子はおとなしくて泣きもしない育て易い子供だということでテレビの前にねかされていた子供が自閉症になり易いのである。いつも耳には入るのはテレビを通して出ている声と音だけで、テレビの方はよくみるが、お母さんの生まの声を聞く機会が少ないのでお母さんから自分の名前を呼ばれても、自分の名前を呼ばれたことに関心がない子供になってしまう。
赤ちゃんは必ず名前を呼んで声をかけて抱きあげて、しっかり胸に抱いてミルクものませるようにしないといけない。お母さんの膝に抱かれていた時に味わう心の安らかさ、その安らかさが人間を落着きのあるものにするし、その安らかさが実は禅定をする時の心の安らかになるのである。だから禅定をする人は、お母さんの膝に抱かれていた時の自分の姿を想像して心の安らかさを取り戻せばいいのである。


第四十七章 幼時に愛し過ぎる弊害

 かわいい、といってはお母さんは赤ちゃんに頬ずりしたり抱擁したりする。その肌と肌のふれ合いによって相手に対する自己同一化即ち愛の感情が培かわれてゆく。ところが幼児を愛撫する母親の感情の中に、また子供が小学生から中学生となり性微が出てくるその中で、母親が幼児を愛撫する中で性的快感を味わい、また、夫によって満たされない性的欲求不満を、子供を見、世話をする中で満足させたいというような性的感情が入ってくると、その子供は性的に早くめざめ、ませて性に普通の子供以上の関心を持つようになる。性的非行に走る子供達は、知らず知らずのうちに親によってそのようにしむけられたのであり、非行に走る勇気を持たない内向型の子供は、頭の中は性のことで一杯になり、性以外のことは考えられず逆にノイローゼになるのである。甘やかされて育った男の子がノイローゼになるのは、原因は性の葛藤にある。母親は、特に男の子供の性的興奮を誘発するような愛撫のしかたをしてはいけない。


第四十八章 夫婦の調和が大事な理由

 夫に失望し、夫によって愛が満たされないと、母親は男の子供に期待をつなぐようになる。男の子供の成長につれてそこに理想の男性像を子供の上に描くようになり、特に性的特徴がはっきり出てくるようになると性的にほいのする思いを母親がかけるようになる。
 念は通ずるのであるから、男の子供はその念をうけて性についての関心を持つようになり、その性的興味を持つようになった発信源が母親にあることを知らない子供は、なんとはなしに無意識のうちに母親を性的対象として心の中で見るようになる。普通は母親を性的対象とみるのはいけないことであるとしてつぎには年上の女に関心を持つようになる。最近年上の女と結婚する男子がふえてきたのはこういうところにも原因がある。そうして多くはやはり自分の年令と釣り合った女性を結婚の対象に選ぶようになる。過度に母親に愛された男の子供は母親に心が固着して、母親と肉体関係を持っている場面を想像するようになる。そうすると、きよらかなものとして尊敬すべき母を、みだらな性的対象としてみたいということで罪悪感を感じて苦しむようになる。そうなると外へ出るのがいやになり、人がみな自分の心の秘密を知っているような気がして人の目がこわくなり暗いところにこもり勝ちになる。
 男の子供のノイローゼはこのようなケースでなるのが多いのであるから、それを治すには、まず母親が子供にそういう思いを送らないように、子供のことはさて置いて、夫に心をむけるようにするようにしなければならないのである。



法 語   1979年12月16号

第四十九章 心の合理化

 正見とは偽りなく自分の心を見つめることである。人間の心の中には、自分がまちがったことをしていることを充分に知っていながら、それをまちがいではないと正当化し合理化しようとする心がある。受験期が近づくと病気になるのもそのひとつである。健康で受験してもし不合格になると、「あいつは頭が悪いのだ」といわれるが、病気になると、病気になったから勉強ができなかったと不合格の理由を正当化して、頭が悪いといわれるのを避けることができる。即ち仮病も合理化の一つである。自分が悪いことを知っている者ほど相手に対して攻撃的になり相手を悪くいう。相手を悪くいうことによって、自分がこうするのは当然だと、自分の行為を正当化しようとするのである。他に責任転嫁する心もそうであろう。自分の心を正しく見つめられるようにならないと魂の進歩はない。


第五十章 嫉妬は正見を妨げる

 嫉妬心は相手を引きずりおろして自分が相手よりも優位に立とうとする心である。嫉妬心があるとすべてのことを否定したり圧迫したり軽くあしらったりする。相手を悪くいうことによって自分を偉いのだとみせようとする。なにかを聞いた時に、すぐそれを否定しようとする心が先に起ったら嫉妬心がある証拠であるから、相手がなにかをいったら、相手がそのように考えていることは、その人にとっては正しいことなのであると一ぺん素直に聞いて、その上で自分はどう判断すべきであるかを知性によって確めなければいけないのである。なんでもかんでも反対してすなおに聞こうとする心がないと正しく見ることができない。相手が不幸になることを喜ぶ心があるとあなた自身が幸福になれない。相手の喜びを自分のことのように喜べるようになることである。


第五十一章 都合の悪いことは忘れる

 地獄耳という人がある。地方によっては勝手耳ともいう。外のことは聞えないくせに自分のことをいわれたり自分が損させられるような話になると、「いま、なにいったか」とつめよってくる。「心ここにあらざれば聞けども聞えず」であって、聞こうという意思がなければなにごとも聞えないのである。自己保存の強い利己主義者ほど自分に都合の悪いことは忘れる。愛情が失われてくるとその人のいうことは心にとめなくなってくる。学校へ行く子供で忘れ物が多いのは、学校へ行きたくない心が働いているのであるから、なぜ学校が面白くないのか担任の先生とよく話合ってみる必要がある。人間は、愛する人のいうことは絶対に忘れない。先生が好きであったら、好きな先生のいわれることは絶対に忘れないものである。過去のいやな思い出は早く忘れようとする心がある。心の底にかくそうとしないで明るみに出して修正することである。


第五十二章 病気不幸は自己処罰である

 誰も知らないことであっても、自分で自分は悪いことをしたという罪悪感があると、こういう悪いことした人間が幸福になる筈がない。といって幸福になるチャンスが与えられてもそれを拒否して不幸の道を選ぶようになる。また、自分みたいな者は死んだ方がましなのだと思って自殺するまでの勇気もない者は病気を自分でつくる。悪かったことは二度としないようにすれば罪は赦されるのであるから、懺悔反省して心の中から罪悪感をなくすることである。
 また、心の奥底で病気になった方が都合がよいと思っている者も自分で病気をつくる。病気になりたい心を持っている者などいる筈がないと思う人があるかも知れないが実際にあるのである。病気になって同情されたいとか、病気になれば仕事しないですむとか、病気になればラクができるとか、そのような逃避する心を持っていては幸福になれない。



法 語   1980年1月17号

第五十三章 正法は万物を活(い)かす

 正法は、神が万物を生かす慈悲、愛の表現である。太陽は神の慈悲・愛の表現である。太陽信仰が始まったのは太陽が神の心の表現であり万生万物に平等に光りと熱を与えているからである。それと同じように、正法は万生万物生命を与える神の法である。正法が宗教に生かされる時、その宗教は新たな生命を得て真の生きた宗教となり、正法が政治に生かされた時、万人のための政治となり、正法が経済に生かされる時、足ることを知った貧富の差のない経済となり、正法が教育に生かされる時、それは人間性を開発し真の人間性を満足させるための教育となり、正法が会社で生かされる時、その会社は繁栄し、正法が家庭に生かされる時、家庭は真の調和を得、正法が個人に生かされる時、その人は人として自己を確立して自分の運命の主人公となるであろう。
 正法によって万生万物は復活するのである。


第五十四章 これからは綜合の時代である

 物質科学はものを細かく分析することによって発達してきた。細かく部分に分けて分析した結果、人々を生かすつもりの科学が人を殺す原子爆弾をつくり出した。原子爆弾によって沢山の人が殺されてはじめて心ある人々は分析するだけでは人は生かされないことを悟った。人間を部分に分けた唯物医学は、ますます多くの病人をつくり出した。新しくふえる病人に医学は追いつかない。分析があって綜合がなければすべては死である。自動車も細かく部品に分解すれば自動車としての用を偽さないのと同じである。
 四百年に亙る近代合理主義、科学主義の時代は終った。分析された従来の宗教、哲学、思想だけを信じている者は時代遅れになる。
 二十一世紀は綜合の時代であるが、八〇年代からは二十一世紀に入るための準備の時代であるといえる。新しい年を迎えて発想の転換が必要である。


第五十五章 宗派宗教は本当の宗教ではない

 ある時、ある場所で、その人々の機根に従って説かれた教がすべての人に通用する筈がない。宗派宗教にはそれでよいという人もあるがその反面にそれでは満足できない人が必ずある。新興宗教も同じである。宗派宗教は神仏を礼拝する儀式を持っている。儀式は本当の信仰には必要はない。あなたが今までの信仰に疑問を持たれたとしたらそれはあなたが正しいのである。部分は部分であって全体ではないのと同じように、釈尊やキリストの教の一部分を知ってそれで全体を知ったとするわけにはいかない。
 二十一世紀に向っていちばん反省しなければならないのは各宗教団体の指導者である。自分が知っただけのことを宗教のすべてだとして信者に強制してはならない。宗教指導者は自分の教団の中の反対意見に耳を傾けるべきである。


第五十六章 悟りとは

 悟りとは自分で自分の心を完全にコントロールできることである。人がなにをいっても腹を立てまいと思えば立てずにいることができる。悲しみはそのことだけに囚われると悲しみのままで心を暗くするが、そのことが自分の欠点を気づかせ、ものの考え方の違い、心の狭さ、知識の不足などに気がつくならば悲しみは喜びに変ってくる。悟った人とは心の取直しがすぐできる人であり、禍いを転じて福となすことができる人のことである。心の正しいあり方を説かずに霊能力を誇ってあてごとや病気直しを、こととしている人を悟った人と思ってはならない。現世利益を強調するのは真の宗教ではない。現世利益はその人が悟った結果として副次的に起ってくるのであって、現世利益中心になると魔に支配され易くなる。霊能力に憧れ霊能力を持ちたいという野心も一つの欲望であって釈尊はそういう欲を捨てよといっていられるのである。



法 語   自己確立への道     1980年2月18号

第五十七章 流行病

 流行を追わずにはいられないというのも一つの心の病気である。日本人のほとんどが流行病に罹っている。新聞に癌の死亡率が高いと書かれると、自分も癌になりはしないかと心配し、ノイローゼが流行すると、いかにもそれが新しい文明病みたいに思って、少し心がふさぐとノイローゼではないかと思い、胃が少し痛むと胃潰瘍だと思い、病気であることに優越感を持っている人がある。ファッションやモードの世界は典型的な流行病の世界である。終戦後いち早く流行したのがロングスカートで、つづいてパットを入れたいかり肩、フレヤーコートにショルダーバッグ等、そうしてミニスカートと猫の目のように変ってきた。化粧品も毎年毎年基礎となる色が変る。マージャン熱、ゴルフ熱、ドライブ熱、日本人はなんでもかんでも熱病にしてしまう。
 飛降り自殺したと新聞に出ると必ずつづいて飛降り自殺する人がでる。絶えず流行を追っていないと安心できないという人、つねに廻りの人が気になって仕方がないという人は自己の確立ができていないのである。


第五十八章 流行の最尖端を行く積極型

 ファッションは、会社が人の心を操縦して儲けんがために商業デザイナーにつくらせ、それをマスコミを使って宣伝した産物である。いつも流行の最尖端をゆき、自分を他人よりも目立たせようとする人がある。こういう人は、他人の注目や羨望、賞賛を受けることを期待している自己顕示欲の強い人である。自己顕示欲の強い人ははヒステリー型の性格で、いつも芝居がかった大げさな身ぶりや派手な身なりで他人の目をひこうとして、自分に注意をひきつけないではいられない人で、自己本位で、わがままで、見栄坊で、競争心がはげしく、いつも他人が気にかかって他人と自分とが違っていることを強調しようとする。こういう性格は幼児期に母親によってつくられるのである。また幼児期に抑圧された反抗心が爆発してなる場合もある。


第五十九章 流行のあとを追う消極型

 他人のすることなら自分もしたい。自分一人だけ除け者にされたくないといういわば個性のないタイプの人がある。積極型は自我意識が強すぎることが原因であるが、消極型は意志が弱いのが原因である。心が健康に発達している人は、いたずらに流行を追うことはしないで、服飾や趣味などは自分の個性にマッチしたものを自分で選ぶ、自我が強くて実力が伴わなかったり、自分に自信がもてなかったり、劣等感があったりすると、その弱さをカバーするために、他人と違った身なりをしようとする。人よりもかわった服装をすることによって自己主張をしようとするほどの自我の強さのない人は、人と同じような服装をすることによって自分の存在を埋没させようとする。こういう心はどちらも中道ではない。衣服は身体を保護すればそれで足りるものであることを知って流行を追わないという心になることからでも自己の確立ができる。


第六十章 偽りの自我を捨てる

 自分の身体や心に自信を持てないものが自分を認めさせようとし、マスコミに登場する流行歌手とか人物にまねすることによって、自分もその人と同じようになったように錯覚する。精神分析学者は、流行の最尖端をゆく心理を、欲求不満や情緒障害からくる攻撃性のあらわれとみる人もある。他人を見下し、他人をうらやましがらせることによって満足を得ようとするからである。流行を追わずにいられないのは精神的未熟者である。こういう心がスター心理であり、スターをあこがれる心理であるが、こうした心が信仰の場で現われた時にメシヤ信仰となり狂信盲信となるのである。信仰は心の成熟を目的とするものであるから、自己を確立するには日常生活において流行を追わず流行にふりまわされず、いつも自分の個性に合った自分の心に安らかさを与える服装をするということからでも始めればよいのである。これが同時に省エネルギー時代の生き方でもある。



法 語   自己確立への道         1980年3月19号

第六十一章 自己の確立とは

 正しい信仰は自力信仰であって他力信仰ではない。ヨチヨチ歩きを始めた時、親は幼児が歩いてくると、「ここまでおいで」と後退りして、少しでも一人で歩く距離を長くしようとするのであろう。それと同じように、神はわれわれ人間が独り歩きするのを望んでいられる。いつまでも、なにかにつかまらなければ歩けないというのでは正常ではない。それと同じように、自力信仰とは誰にも頼らず自分一人で歩く道であり、それが自己の確立である。幼稚園から小学校、中学校、高校と勉強をしてやがて社会人となって独り立ちして行く。
 学校では先生があり、社会人になるとまたそれぞれに師を持つ。それと同じようにその段階にふさわしい先生が必要である。その先生には、自分ではわからない時に、わからないことがあった時に聞くので、朝から晩までなんでも頼り切って聞くわけではない。


第六十二章 他力信仰は甘えである

 「この子はわたしがいないと全くだめなんです。自分ひとりではなんにもできないんですから」と、子供が甘えてくるのを喜んでいる母親がいるが、こういう母親が子供をやがてノイローゼにする。育児の秘訣は、子供自身ができることはなるべく早く子供自身にさせて独立心を育てることである。他力信仰をしている人の心には甘えがある。自分の問題を自分で解決せずに、拝んで祈って解決しようとする。自分の心は自分でしかコントロールできないのに、自分の心のあり方まで拝んで祈って決めようとする。腹が立って仕方がないから腹が立ちませんようにと祈っている。甘える子供はまだかわいいところもあるが、身体は大人でも、心は甘えでいっぱいであるのが他力信仰である。その甘えをなくして自分で生きて行く道はきびしい。自力信仰にはきびしさが必要である。しかし、自分ひとりで解決した喜びはたとえようもなく大きい。


第六十三章 魂の成長記録

 学校でも、試験問題を自分で解かずにカンニングしたら落第であると同じように、自分で自分の問題を解決しなかったら魂は成長しない。死んだ時、あの世の入口で提出する魂の通知表には、その人が自分で自分の問題を解決したその成績が記入してあるのであってカンニングした成績は記録されていない。全優だった人は高い次元の霊界へ行くし、その成績によって自分で自分にふさわしい霊界へ行くのである。生きている時に頼るくせのついた他力信仰をした人が死ぬと、あの世へ行っても頼ろうとする心が強いが、あの世では誰も教えてくれない。この世で自分で考えることをしていなかった人は、あの世で永く迷うことになる。憑依してくる霊はこのような迷った霊である。学校の試験で、全くできなかった時のかなしさと、百点をとって帰った時のうれしさを思い出してほしい。あなたにはその問題を解決する力があるからその問題が与えられるのである。


第六十四章 直観を大事に

 直観とは、あなたの守護霊があなたの心の内からあなたの心に囁きかける言葉である。自力信仰とは、心の内から守護霊と相談して行く道である。守護霊はその時あなたがどうすればいいかも全部知っている。成功し幸福であったという人達は正しく守護霊の声を聞いていた人であり、失敗し不幸になったという人達は守護霊の囁きを無視して自我の欲望を主にして判断し、また他力信仰は、一時成功するようなことがあったとしても結局は失敗するのである。自分のことをいつでも他人に考えてもらうとするやり方がいつまでも成功する筈がない。強い人間になるには、自分ひとりで静かに考える時間を持つことである。孤独に耐え孤独を愛する人間であった時に、あなたは独でなくなる。心の内から囁きかけてくる守護霊の囁きを聞き、それを通して神の声を聞くこともできるようになる。



法 語   自己確立への道         1980年4月20号

第六十五章 人生は積極的に

 「神、光あれといいたまいければ光ありき」
旧約聖書創世記のいちばん初めにある言葉と、釈尊の悟りの、「はじめには神という光明があった」という言葉は同じである。神道では「天照大神」とよんできた。
 神の子であるということは「光の子」であるということである。光の子であるということはあなたの霊が光であるということである。だから人間は光を喜び、明るさを喜ぶのである。あなたが魂の光を曇らせた時、それを心の苦しみとして感ずる。苦しみは魂の本質ではないから苦しみで心にかげりが生ずると、そのかげりをなくしようとする信号である。積極的な人だけが幸福になるのはそれは光の道であり、消極的な人が不幸になり病気になるのはそれは影の道だからである。 積極的になった時、心は明るくなり、消極的になると心が暗くなる。キリストは、「光のあるうちに光の道を歩め」といわれた。


第六十六章 どうすれば病気にならないかを知る必要はない

 近代医学や近代心理学が失敗に終わったのは、身体的に、また精神的に病気であり異常者だけを対象にして、こうしたら病気で異常になったということだけを研究してきたからである。
 人間は肉体的にも精神的にも健康であることを望んでいるのであるから、肉体的にも精神的にも健康である人はなぜ健康であるか知り、その通り実践すればよいのである。
 どうすれば病気にならないかという消極的な考え方ではいつでも心が重々しく暗い。こうすれば健康であるという積極的な心はいつも明るい。病気にならないようにと、いつも病気を心に描いているのと、こうすれば健康になると、いつも健康を心に描いているのと、どちらが心が明るく楽しいであろうか。
 健康は、神が創造された道であり、病気は人間がつくり出したものである。どちらを目標にするかはあなたの自由である。


第六十七章 反抗期はない

 終戦後の学校教育、家庭教育を失敗させた原因の一つに「反抗期」という言葉がある。
 近代児童心理学は、非行少年や反抗児だけの心理状態を研究の対象にして、健康な少年少女が、どうして健康であるのかを研究の対象にしなかった。非行少年や反抗児に特有の「反抗期」を、学問的真理であると権威づけて、大学教授達がPTAの講演会で話をするので、子供は成長の過程でみな反抗期というのがあると信じ込んで、少し親の気に入らないことをしたり、また、親のいうことを聞かないと、「あ、反抗期だな、丁度そういう年齢だ」と考えて親は子供の前に子供を反抗させまい、すなおにしようと見構えてしまい、子供は反抗期という言葉を教えられて、どの子もこの年頃には親に反抗するものなのであると思って、反抗することを自然の状態であると思うようになった。「反抗期」という言葉がつくり出した親子の対立の被害は大きい。


第六十八章 更年期障害もない

 私の五人の子供はみな反抗期はなかった。子供が自立心を持つようにいつも心掛けてきたから、子供は自由にのびのびと明るく育った。子供も光の子であるから、常に明るく自由に伸びようとする。それを親が押さえるから反抗するのである。だから反抗するのは、子供が伸びようとする心の現われであるから、それはよいことなのである。
 婦人の人はよく「更年期」だと身体の不調を訴える人が多いが、世の中には更年期はなかった気づかなかったという人も結構多いのである。肉体の生理作用の転換期は確かにある。それは神が肉体を造られた時に与えられた法則即ち生理作用なのであるから、神がつくられたものが苦痛である筈がない。更年期といわれるその年頃に身体が不調になるのは、それまでに潜在意識の中に抑圧されてきた感情があったのであって、抑圧された感情を持たない、心の明るい人には更年期という苦しみはないのである。



法 語   1980年7月23号

第六十九章 無明とは

 お釈迦さまは一切の苦しみの根源は「無明」にあると説かれた無明とは無智のことであり、どんなことに無智であることが無明であるかというと、

苦しみとはどんなものであるかを知らない
苦しみがどうして起こるかを知らない
苦しみはなくすることができるということをしらない
苦しみをなくする方法を知らない

 ということなのであるから、知らないことは知れば無明(迷い)はなくなるのである。知らないことを知ろうともせずに、「迷いをなくして下さい」といくら祈ってみても迷いがなくなる筈がない。
 正しい信仰は正しく知ることから始まるのであって、知らなければならないことを教えようともせずに、ただ「頼れ」とか「祈れ」とかいっている宗教は一時の気休めにしか過ぎないのである。一生祈ってみても知らないことがわかるということは絶対にない。正法会は知るべきことを正しく教えるのである。仏教は「知の宗教」であるのである。


第七十章 最初のお経

 お釈迦さまが亡くなられて九十日目の第一回結集の時には、文字で書かれたお経はなかったのである。
 集まった五百羅漢の仏弟子たちは記憶して覚えていたことを口で唱えたのである。お釈迦さまの存命中は文字で書かれたお経はなかったのであるから、お釈迦さまが「お経を何遍でもあげなさい」と説かれる筈がない。だから法華経中に一回でも余計に読誦すれば功徳があると書かれているのは後世の人が書き加えたものだというのである。後世の人が勝手に付け加えたものを信ずる必要はない。法というものは心に記憶していて日常生活に実践すべきものである。記憶していなければ日常生活の突嗟の間に思い出して実践することはできない。だから神理は、お経として書かれてあるものを記憶して心にとどめて置かなければならないのである。単によむものとして心にとどめないから「お経よみのお経知らず」とか「論語よみの論語知らず」という言葉が生まれてくるのである。よい言葉は小さい時から子供に記憶させることである。


第七十一章 正法を知ることによる変化

 お釈迦さまの教を聞いたバラモンの僧は、自分の心が変ったことをつぎのようにいった。
今まで逆さまに見えていたものが真直ぐに見えるようになりました。
ふしぎも秘密もなく、これが当たり前だということがわかりました。
迷った道と正しい道がはっきりわかるようになりました。
暗闇の部屋の中に燈火をともすと、瞬間にして暗闇がなくなり辺りを明るく照らし出すことができるように、智慧の光りによって迷いの闇はなくなりました。
 心から迷いがなくなったら心は明るくなる筈である。だから悟りの道、正法の道は明るいのが本当なのであって、日本の現代仏教が暗いのは本当ではないのである。人間も暗さがなくなって明るくなってこないといけない。
 以上上げた四つの変化がないというのであればそれは今あなたが信じていられるのが正法でないか、正法であるのであればそうなる努力をしないかである。


第七十二章 比較して見ること

 すべてのものはみな比較してみた時に、よいかわるいか、長いか短いか、厚いか薄いか、丸いか四角か等々わかるのである。お釈迦さは、お釈迦さまが悟られる以前にあった宗教と比較して正法を説かれたのである。だからその宗教が正しいかどうかは、比較宗教学的な話をしているかどうかを見れば凡そわかるということがいえる。あるバラモン信者がお釈迦さまに、「私は今の信仰をつづけようと思いますが」といった時に、「あなたはそれをつづけられるといいでしょう」といわれたことを多くの仏教学者は、「お釈迦さまは寛容な方でどんな信仰でもよいといわれた」と解釈している人がいるがそれはまちがいであって、その人がそのバラモン信仰をつづけているうちに比較する眼が開けてきて正法の正しさがわかってくるであろう、だからその時までそっとして置く方がよいと思っていわれた言葉である。正法会は比較していうべき時ははっきりというし、いわない方がよい、時を待った方がよいと思う時はいわないのである。



法 語   人を救うために       1980年8月24号

第七十三章 愛深くあること

 昭和三十五年頃までは宗教家が「心で病気が治る」という話をすると医者は殆んどが迷信だといいました。ところがアメリカで発達した精神身体医学が日本に輸入されるようになって、現在ではそれを否定する医者はいなくなりました。病気の大部分は心で起るのであるから、心を治せば病気も治ることを知っているのになぜ医者が心の治療をしないのか、 原因は健康保険法にあります。
 アメリカでは精神治療の場合は一時間に○弗という治療費が支払われることになっており、薬や手術で治療する医者よりも、精神治療をする医者の方が社会的地位も上位で尊敬されていますが、日本の場合はその反対で、今の健康保険法では精神治療をしても金にならない。薬や注射をしないと金儲けできないことになっています。
 乱診乱療、一人の診察時間が二、三分でろくに診察もせずに、薬は馬に喰わせるほど持たせるというのは健康保険法が悪いのです。
 現在の日本の健康保険法は今から一〇〇年前、明治維新直後にドイツから入ってきた「病気は病原菌があってなるのである」という唯物医学を基にしてつくられているので、日本の現在の医療体制、健康保険法を変えるには精神身体医学を基にしなければいけないので、その点日本医師会は時代の進歩にそむいたいちばん古臭い思想を持っているわけです。日本の医者には愛がないといえます。


第七十四章 なぜ新興宗教がふえたか
 心で病気が治ると説いたのは新興宗教でした。既成宗教といわれる神道、仏教、キリスト教は、宗教とは魂の救いを説くのであって病気など治すものではない。病気が治るというような現世利益を説くのは邪教であるといっていました。既成宗教が魂を救うのだと高くとまって大衆の病気の悩みを救う力がなく日本の医学会が唯物医学一辺倒になっていて誰も心から起った病気を治す力を持たなかった時に新興宗教が「心で病気を治す」というスローガンを掲げたわけです。実際に心で起った病気なら心が変れば治るのは当然です。
 肺病は「ハイ」とすなおな返事をしないからだ。扁桃腺は「へんとう(返答)せん」からだというようなことがいわれ始めました。
 どこの新興宗教の教団でも「病気が治った」という奇蹟の体験が続出して信者がふえてゆきました。それは当然のことであったので別に奇蹟でもなんでもなかったのです。


第七十五章 病気が治るのは事実である

 創価学会の人達は「マンダラのお蔭だ」「日蓮上人のお蔭だ」といい、立正佼成会の人は「ご本尊のお蔭だ」といい、生長の家は「生長の家大神、住吉大神のお蔭だ」といい、どこかにお詣りしている人達はそこの神さまのお蔭だとそれぞれ一所懸命に信仰しているわけですが、病気が治ったのは神さまのお蔭でもなければマンダラのお蔭でもないのです。
 ただそれらのものは心を変えるきっかけになったにすぎないのです。それらをきっかけにして心が変ったから病気が治ったのです。
 一つの教団に入会してそこで病気が治るとそこの信仰のお蔭だとありがたくなって一心になり、そこの信仰で治ったのが本当の治り方で、他の教団の信仰で治ったのはウソだと多くの人は思っています。しかし、病気が治るのに、ホントの治り方とかウソの治り方というのがあるでしょうか。医者で治ったのがホントの治り方で宗教で治るのはウソの治り方だというのがあるでしょうか。どこでどうして治ろうと、治ったという事実はすなおに認めるべきです。うちの教団で治ったのがホントで、他の教団で治ったのはウソだとかいうような過った差別の心を持ってはならないので、心の病気が治るのは事実だから事実は事実としてすなおに認めることが正しい信仰の一つでもあります。


第七十六章 病気は神が治すのではない自分が治すのである

 神が治すのであったら、その神を拝んだ人はみな治らなければならないということになりますが、創価学会でも立正佼成会でも生長の家でもその他の教団でも一所懸命に拝んだが治らなかったという人が沢山おります。
 どこの教団でも治った人の体験は華々しく宣伝しますが、治らない人が沢山あることは絶対に発表しません。治った時は「ここの神さまのお蔭だ」といって神さまのお蔭にして「あなたの信仰が自分で治したのです」というようなことは絶対にいいません。その代りに治らなかった人に対してそれこそきびしく吐き捨てるように「あなたの心が悪いのだ」「あなたの信仰が悪いのだ」といいます。本当に人を救う愛があったらそんなに吐き捨てるようにいわないで、さらにもっとやさしくどうすればいいかを教えるのが本当の宗教指導者ではないでしょうか。
 治った時だけ神さまのせいにして治らないと本人のせいにするのは矛盾ではないでしょうか。神さまのお蔭だといっていて治ったり治らなかったりするのは、そんな神さまは神さまという資格はありません。神さまが病気をつくったのなら神さまに頼めば治して下さるでしょうか。病気は自分の心でつくったので神さまがつくったのではありません。人間を病気にして苦しめるという神さまなどない筈です。
 病気を治すのに神さまを拝む必要はないのです。


第七十七章 心が変われば病気も治る

 精神身体医学という学問はアメリカで発達したのです。病気は心で起るのであるから心を変えれば治るということが医学的な研究の結果明らかになってきたのです。アメリカで精神治療を受けて治った人達は、創価学会でも立正佼成会でも成長の家でもなんでもないのです。なんの信仰をしなくても治っているのです。お釈迦さまは中道調和の道、いかにして心を安らかにするか、心を安らかにすれば病気にもならないという正法の道を説かれたのであって、正法とは正しい心のあり方を説くので、○○の神さまを拝みなさいというようなことは説かないのであります。
 どこの教団の信仰をしていても治らなかったという人達は心が変らなかったからであって、われわれはどこの教団に所属することもいらないのであります。どこの教団の会員にならなくても、心の正しいあり方を知れば病気になることもないし、またなったとしても自分で自分の心を修正して治すこともできるのであります。


第七十八章 医者や薬が病気を治すのではない

 多くの人は医者や薬が病気を治すと思っています。それは違うのです。人間には病気になった時は自然に病気を治す「自然治癒能力」というものが与えられてあります。医者や薬は自然治癒能力を高める補助的な役割をするだけのことです。このことは医学の教科書の第一頁に書いてあるのです。だからどんな名医でも、病気を治そうとする意欲のない患者、病人になっている方が都合がよいと思っている患者は絶対に治すことはできないのです。生まれつきの持病で治らないとか、若い時からの持病で治らないという人達は自分で治らないと思っているから自分で自然治癒能力を働かさないようにしているからであって、自分の肉体に内圧する自然治癒能力を信じて「必ず治る」という心を奮い起たせれば治ってゆくのであります。

 これからどうすれば病気が治るかを書いてゆきますのでつづけてよんで下さい。尚これは病気のことだけでなくどうして幸福になるのかということにも通ずるのでありますからよくよんで下さい。



法 語   人を救うために      1980年9月25号

第七十九章 医者は治さない

 ほとんどの人は医者が病気を治すと思っています。しかし、医者が病気を治すことはないのです。病気を治すのは神でもなければ医者でもないのです。医者がそういっているのです。
 西日本新聞に福岡大学医学部第一外科、志村秀彦教授の医療雑感が載っていました。「生命の仕組は精巧で、治る力は医師の力をはるかに超える。医者は患者のそばにいて邪魔者を払いのけ、力づけるだけですむことが多い。やたらに手を加えたり、投薬したりする過保護が、逆に治る力を弱まらせる結果になりかねない。患者の身になって、苦痛、障害を感じ、陰に陽に介抱し、力づけ、患者自身の治る力を存分に発揮させるように心を配るのが医者の本分。生きる喜びを患者に味わってもらうことを願うのが医者の生きがい。」
 心が病気をつくるのであれば、健康体の人は病気にならないように心のあり方に気をつければいいし、病気だという人は心を治せば病気は治るということになります。
 講談社とマイヘルス社共同発行の「別冊壮快」という雑誌があります。その中で「心で病気を治す事典」副題「心の持ち方ひとつで現われるすばらしい効果」の中の目次だけ並べてみましょう。

「病気を起こし病気を治す心の不思議」
    自治医大教授  宮本 忠雄
成人病の大半は心が原因で起る。成人病とは、高血圧症、動脈硬化症、心臓病、胃潰瘍、糖尿病、肝臓病、リウマチ、喘息、痛風、神経痛、ノイローゼ、うつ病、ガン等。
 ガンだけは例外だという人がいるが最近ではガンの精神療法という言葉が生まれている。たとえガンになっても最後まで希望を捨てず、心を明るくもたせる言葉がいかに大切かである。


「子供も大人も心が原因の病気が激増中」
   愛知医大教授   久徳 重盛
人間の基礎のできる三才前後に、ひずみのある基礎がつくられることが原因となる。


第八十章 医者も必要である

 確かに病気は心でつくるのであるから、心を治せば病気は治るということになります。
 この精神身体医学を教義に取り入れたある宗教では、「心を治せば病気は治る」といって医者も薬もいらないと教えました。その結果、たしかに心だけで治った人も沢山ありましたがその半面に、早く医者の手当を受ければ治ったのに、最後まで医者にかかることを拒否したために、最後に病院にかつぎこまれた時はもはや手遅れで死んでしまったという人も沢山でました。
 その宗教では医者にかかる人は信仰が足らないのであるといいますから、信者達はどうしても医者にかからなければならない時でも、なにか悪いことをするみたいに外の信者にわからないようにこっそり行くということを言っていました。
 医療公害、薬公害が叫ばれているように医療の行き過ぎ、薬の乱用はいけませんが、正常な医療、薬の使用は必要です。
 心が病気をつくるということは心の傾向が肉体の生理作用の変化、肉体細胞の歪みとなって現われるということです。心を変えることは短い時間でできても、物質である肉体の組織や細胞が変化するには時間がかかります。ここに心は治っていても肉体の方はまだ治っていないというズレが生じます。また心が治ったといっても一ぺんにパッと心が治るということもなかなかむずかしいことです。明るくなったり暗くなったり一進一退しつつ変ってゆくのが普通です。心の変化と肉体の変化とのズレがあるところに、医療によって治療の障害になっているものを除き、手当をし、また薬によって弱まっている自然治癒能力を掘り越し回復させることが必要であるという場合が生じてきます。このことが前章に書いた志村教授の「医師は患者のそばにいて邪魔者を払いのけ、力づける」という言葉になり「患者自身の治る力を存分に発揮させるように心を配るのが医師の本分」であるという言葉になってくるわけです。ある宗教のように医療を否定することも極端であるということになり、やはり中道が必要だということになります。


第八十一章 心の治療で薬はいらない

 「心と身体両面の健康を追求する心身医学」という東邦大学助教授筒井末春氏の文章を紹介しましょう。

「病気というのは、細菌感染などによるものを除くと、その人が精神的、肉体的、社会的に生きてきた人生体験の結晶であるともいえるわけです。人間の心が病気に与える影響がここ十数年の間に研究されてきました。現在では、心理的要因でおこる病気の多くは、薬にたよらず治療できるようになっています。」、と。

 八月号の「法語」につづいてここまで書いたことによって、病気は医者が治すのであるとか、病気は薬で治すのであるというぬき難い医者に対する信仰、薬に対する信仰はみなさんの心から消え去った筈です。これまで多くの人は生命のことをいちばんよく知っているのは医者だと信じてきました。しかし医者は生命のことについてはまだなんにも知ってはいないのです。医者も漸く生命の神秘さに気づいたということです。

名古屋市立大学長高木健太郎氏は、
「これまで多くの人は身体と精神は別個の存在だと考えてきました。身体と精神は互いに影響し合っているのですから健全な身体を得ようとすれば、健全な精神が必要であるのはいうまでもないことです。「心身一如」として健康であってこそ、はじめて本当の健康状態といえましょう。現代の過酷な競争社会ではさまざまのストレスが人々を取りまいており、ストレスが病気を起すことも多いのです。こうした心理的要因で起る現代病に対しては薬を飲むよりも、リラックスしたほうが効果的だといわれています」

心で病気が治るということはもうこれ以上書く必要はないと思います。ではなぜ正法誌でこういうことを取り上げるのかを次に書きましょう。


第八十二章 悟るためには心の自由自在性を知ることが必要である

 人間の存在を傷つけ危なくする人間以外のものが存在するという考えは人間の心を小さくします。人間は神の子だと知っても、人間は病原菌にはかなわないとか、また、病気のことだけでなく、悪霊や自縛霊がいて、人間はひょっとするとそれに負けるという恐怖心を持っいることは、それだけ心を小さく暗くしますから、そういう恐怖心や自分を弱いと思う心があったのでは心の底から明るくなることはきません。
 人間は神の子であるという自己確立の心の中には、人間はなにものにも犯されることもなく傷つけられることもない絶対的存在であるという自覚がなければならないのです。人間は万物の霊長として、この地上に置ける神の代理者として一切を調和させユーピアを建設しなければならない使命を持たされているのでありますから、人間が菌や動物や悪霊などに支配されるという考えを持つこは、人間そのものの尊厳さ、神の子の自覚を否定することになります。
 正法で心と病気の関係を取り上げるのは、唯単に病気を治すこだけを目的として取り上げるのではないのであって、心を大きく豊かにして悟るためには、なにものにも支配され影響されることのな心の自主性、自由自在さを獲得することが必要であるからであります。
 正法会以外の宗教団体では、病気が治るともはやそれだけで信仰がりっぱにできているような扱い方をしますが、病気が治ったばかりの人は、それまでまちがっていた心のあり方を正しく治して健康になったということで、病気もせず健康であったという人より以上にりっぱになったわけではありません。病気が治ってそれで信仰が終りなのではないし、身体が健康になったら、それからさらにますます心をきく豊かにしてやがて宇宙即我の悟りまでに到達してゆかなければならないのでありますから、その人の病気が治って健康になったということは祝福しますが、病気でもなんでもなかったという人より以上にりっぱな信仰心を持っていたというような、従来の宗教団体がやってきたような扱い方はしないのであります。病気が治ってから先の魂の勉強が大事なのであります。


第八十三章 病気の原因

 病気の原因は次のように分けることができます。

霊的原因による、動物霊、憑依霊によるもの。
ストレスなどの心に基因するもの。
ばい菌によるもの。
公害、環境の影響によるもの。
肉体の酷使、無理によるもの。

 右のように分けることができますが、動物霊や憑依霊に憑依されるのも憑依霊と波長の合う心を持っているからであり、ストレスを生ずるのも心の問題であります。ばい菌はあってもばい菌に犯されないように智慧を働かせればよいし、公害や環境の影響も、心のあり方と智慧によってうけないですむし、ムリをして身体をこわすということも智慧のないことでありますし、こうして考えてくると、もとは心が原因だということになります。
 たしかに憑依しているという人は、憑依霊を取り除いても心が変らなければまた憑いてしまいますから、根本的には心を変えなければならないということになります。霊的原因によるものは医者も診断がむずかしいしまた薬を飲ませてもなかなか治りません。
 心によって病気が治るということが医学界でも常識となった現在では、心を治療する医者が出てきました。もっと日本医師会は、病気は心で治ることを宣伝すべきだと思います。医者が精神治療を確実にやれるようになれば、信仰で病気が治るといって集めていた、いろいろな教団の信者達は医者の指導をうければよいということになるわけですが、現世の日本の医療体系では、精神治療を専門にすると生活できないという仕組になっていますから、ということは医師会だけでなく厚生省の官僚群の考え方も変らない限り、日本では精神治療法は全体的には取り上げられないということになり、極めて良心的な医師の個人的な活動に俟つしかないということになります。厚生省が早くこのことに気づいて医療体系を改革すれば、病気治しを目的に信仰に走るという人もなくすることができるから、日本の宗教界を浄化することにもなります。医者が物心両面から病気の治療をするということになれば、宗教は病気治しを口実に信者をまちがった信仰にひき入れるということはなくなります。
 このようなことを逆に考えると、日本の病気治しを主目的とした新興宗教を発展させているのは日本医師会の迷妄さであるということがいえます。病気治しの宗教をめざして、宗教が医者の領分を侵すなどといわないで、医者自身がもっと医学の発展に忠実であればいいのです。
 日本の経済界は悉く外国の真似をして発展してきたといわれますが、文化の世界でも真似してきました。アメリカでは瞑想による治療を始めているのであるから真似するなら徹底して真似して、日本でも瞑想による治療を始めればいいと思います。



法 語   人を救うために   1980年10月26号

第八十四章 一年三六五日をどう生きるか

 かつて「一年三六五日をどう生きるか」というアメリカの医者の書いた本が出版されたことがあります。そのはしがきにこう書いてありました。

 「あなたが一年三六五日を、黄金の花咲く並木路を口笛を吹きながら、大手をふって歩いた一年であったかどうか、そのうち何日がかなしみになきぬれた日であったか。悲しい気持ちで暮らすよりも、明るい心で暮らす方がよほどたやすいのであります」、と。

 日本は仏教と武士道の影響により、さらに日本仏教が「人生は苦なり」と説いた結果、しかつめらしい、むつかしい、自分ほど苦労している者はいないというような、必死に苦しみに耐えているような顔をしていないと、まじめなりっぱな人間ではないような考え方をしてきました。一言にしていえば「明るさ」がありませんでした。ほんとうの明るさというのは、必死になって仕事をしている時でも、また、仕事が終ってほっとした時でも、一貫して失わない心の明るさであり、最近の若者達みたいに(若者だけではないようですが)なにか遊んでいるときはたのしいようであっても、それが終るとふつとさびしい、わびしさが心の底に潜んでいるような心はほんとうの明るい心ではありません。
 起きていても寝ていても、なにをしていても、心から楽しくて仕方がないというような心の明るさ、そういう心の明るさで一年三六五日を暮すならば、それは丁度、黄金の花咲く並木路を、口笛を吹きながら歩くような一年だ、人間はそういう生活ができる。そういう生活をしないから、病気をしたり、家庭に不調和が起ったり、苦労が絶えないのであるというのです。
 そういう明るい心を持つには、○○という宗教団体に入らなければできないということはありません。折角、明るい心になるつもりで入信しても、いろいろな規則に縛られて、「あゝしなさい、こうしなさい」と強制されたのではかえって心を暗くするでしょう。心を支配しているのは自分ですから、自分の心を明るくするのに、なになにという教団に入らなければならないということはないのです。


第八十五章 奇蹟を呼ぶ感謝と調和の心

 「この大宇宙は調和されている」ということを私が直感で知り、天からの声を聞いたのは昭和二十六年秋でした。この天の声を聞いてから私の周囲に奇蹟が起り始めました。
 私が指導したのは「感謝し調和しなさい」ということだけでした。
「ではどうしたら感謝と調和の心を持つことができるのか」という指導方法は、いろいろ指導する人によって個性があるようですが、私はその指導が上手だったということでしょう。また天上界からの協力もあったと思うのですが自分でもびっくりするほど奇蹟が起りました。その頃は奇蹟だと思っていましたが、高橋信次先生に正法を教えられてみると、それは至極当然のことであって奇蹟でもなんでもないことがわかりました。
 生長の家は「天地一切のものと和解せよ」「天地一切のものに感謝せよ」と説いていますがこれは正しいのです。私は成長の家の地方講師になり本部講師になり、多くの人に感謝と調和の道を説きました。そのことは正しいのです。生長の家だけでなくどこの教団でも感謝と調和ということは説いています。まさか喧嘩しなさい不足をいいなさいという宗教もないでしょう。だから感謝と調和を説いていることは正しいのです。ある宗教に入ってよくなったという人は、そこで説かれている感謝と調和の道を聞いて、その通りの心になったからよくなったので、たまたま、その宗教の話を聞いたことがきっかけになったということだけのことで、その宗教でなくてもよかったわけです。
 そういう話を聞いても、どうしても感謝の心も起らなければ調和もできないという人がどこの宗教団体にもおります。そういう人はよくならないのです。私が指導した人でもそういう人はよくなっていません。人の心を強制して聞かせることはできません。心というものは、心の内側からその人が開かなければ絶対に開くことはできないでしょう。自分の心を支配できるのは自分自身でしかありません。


第八十六章 感謝と調和は法として存在する

 どこの宗教団体でも感謝と調和が大事であることを説いています。あの教団で説いている感謝と調和はホントだが、この教団のはウソだといえようなことはない筈です。感謝と調和の心を持った人達はみなよくなっています。
 ところが多くの人達は、自分の教団でよくなったのはホントだが、ほかの教団でよくなったのはウソだという考え方をします。こういう差別する心、疎外する心を持つことはまちがいであります。また、よくなった人が、自分は信仰ができたからよくなったのだと思って、なにもない人を信仰ができていないように、他を低くみる心になったら、またその人は病気になったりするでしょう。信仰する人にはどうしても心のくせのある人が多いようです。しかしそれは宗教指導者の罪である部分も多いのです。
 病気になってから病気が治って健康になるよりも、はじめから病気にならない方がよいのですし、不幸になって苦しんだ揚句に幸福になるよりも、はじめから幸福である方がよいのです。病気を治したり、不幸な人を幸福にするのが宗教の目的ではありません。健康な人が、ますます魂を磨き心を大きく豊かにして悟ってゆくように導くのが宗教本来の使命です。だから本来の宗教は、健康で幸福であるという人を目標にして説かなければなりません。
 宗教が病人や不幸な人を救うのは病気であったり不幸であったりすると、そのことで心は一ぱいになって、とても心を大きく豊かにして悟るというどころではありません。宗教はすべての人を救わなければなりませんから、病気や不幸であるという人は、まず病気を治し不幸をなくして、いよいよそれから悟りの道に入るスタートラインにつかせようとする慈悲なのであって、病気が治り、不幸がなくなってからの先の方が大事なのです。ところが現在の日本の宗教は、病気を治し不幸をなくすれば、それが宗教の使命であり役割だというような考え方をしていますが、それは宗教本来の使命がわかっていないからです。


第八十七章 特定の教団に入る必要はない

 ○○という教団に入らないと感謝と調和の心は持てないということはないでしょう。実践倫理宏正会とか道徳科学という団体があります。この団体は宗教団体ではありませんが、人の生きる道として感謝と調和を説いております。だからそういう心になった人はそこでも病気が治ったというようなことが起っています。だから感謝や調和は、なにも宗教団体だけの専売特許ではありません。
 ここで考えてほしいのです。宗教団体や道徳を説く団体に入らなければ感謝や調和の心は持つことはできないのでしょうか。みなさんの周囲には、どこの団体にも所属してはいないが健康で幸福であるという人が必ずある筈です。そうして見た場合、信仰していていつも病気だ不幸だという人もある筈です。それはどうしてでしょうか。信仰がないと幸福にならないというのであったら、信仰していない人はみな不幸だということになり、信仰している人はみな幸福だということにならなければならない筈なのですが逆な現象が起っています。
 「○○の宗教でないとよくならない」と、熱心な信者達は宣伝しますが、それなら外国の人達はどうなるのでしょうか。外国にはそういう宗教はなくても外国の人達はどうなるのでしょうか。外国にはそういう宗教はなくても外国の人達は結構たのしく生きているではありませんか。
 正しい信仰をするには小さな範囲のことだけを考えたのではいけないのです。少なくとも地球全体のことは考えなければいけません。日本人ばかりが人間ではないし、外国人も人間としては変りはない筈です。なんの信仰をもたなくても健康で幸福であるという人は、自然に感謝と調和の生活をしている人達です。どこかの宗教団体に入ったために、その教団のいろいろな規則に縛られて、かえって辛い思いをしているという人は、むしろそういう信仰はやめて、自由自在な心になって天地一切に感謝しすべてと調和することです。
 人間は神の子として神が持たれる慈悲と愛の心を持って生まれてきているのでありますから、天地創造の神に感謝し調和の生活をすればそれで人間は健康にも幸福にもなれるのです。そういう点に於て、正法会は、いろいろな宗教団体に入って、かえって心に苦しみをつくって悩んでいる人を、心の底から明るくなるように解放させてあげるという役目をもっているわけです。


第八十八章 医者も宗教団体もいらない世界、エデンの園の再現

 感謝と調和の心を持ったら健康になり幸福になるというのは、神がつくられた宇宙の法則なのです。神が一旦人間を苦しめて、そうしてからでないと救わないのであると考えていることは、神を冒讀するものであります。苦しみは人間が勝手につくり出したので神の責任ではありません。ただ神は、法として善因善果、悪因悪果の因縁の法をつくられました。
 その法則をどのように使うかは人間の自由に委せられたのです。そのことを釈迦もキリストも説かれたのであり、私の師である高橋信次先生が説かれたのもそれだったのであります。明るい心を持てば明るい結果が出てくるし、暗い心を持てば暗い結果がでる。日本人はそれをつぎのように教えてきました。

 笑う門には福来る
 泣き面に蜂

 ○○という宗教に入らないと明るい心になれないというようなことはないのです。神の存在とありがたさ、自然の存在とありがたさ、そうして人間はなんのために生きるのかという人生の目的がわかれば、人間はどんな状態の中からでも明るい心になれるのです。
 世界中の人が一人残らずこのことを知って心を明るくし感謝と調和の生活をすれば、病気になる人はいなくなるから医者はいらなくなります。いらなくなるといってもいろいろなことで怪我したりすると応急の手当が必要になりますから、手術できる外科医だけがいればよいということになります。まじめな医者の間では、ほんとうの医者というのは外科医だけだといっている人があります。
 いろいろな宗教団体もいらないということになります。やがて国境をなくして世界を一つにしようという地球政府設立の運動も起っているのでありますから、土地の国境だけでなく、心の国境も、隣りの人との境界もなくして、一つの心の世界にしなければいけないと思います。政治家も派閥をなくしようといっているのですから、教祖とか各宗教の指導者達も、宗教の垣根をなくしようといい出してももういい頃ではないでしょうか。
 神の世界は一つであり、神の世界に垣根はないのであります。



法 語   人を救うために   1980年11月27号

第八十九章 医療公害

 昭和五十五年一年間の製薬会社の薬の生産量は十兆円を越えた。病院へ行くと馬に喰わせるほど沢山薬をくれる。呑みきれない薬はどんどん捨てられている。それはすべて税金を捨てているのである。薬は薬という形になっている金である。薬代はすべて健康保険料で賄われることになっているが、国民の納める健康保険料では足りないから政府が赤字補填をしている。政府は金を持っていない。政府の持っている金はすべて国民の税金である。昔の名医といわれた医者は、ほんの少し薬を使って病気を治した。今はそんな治療をしていたら医者の生活が成り立たないし、第一少ししか薬をくれないところには人が行かないのであるから、今は昔のような名医はいなくなってしまった。今は土手医者が繁昌するのである。
 昔は下手な医者のことをヤブ医者といった。ヤブの中に入ると皆目先がわからない。だから病気の見立ての出来ない下手な医者をヤブ医者といった。そのヤブ医者よりも悪い下手な医者を土手医者というのだそうである。
 ヤブ医者は、ヤブはまだ二・三米でも四・五米でも少しは先が見えるからまだいい。土手医者というのは、土手にぶつかると先は全く見えない。だから土手医者はヤブ医者より悪いというのである。そのわるい土手医者は診断も下手だから診察してもこの病気だとはっきり診断を下すことができない。あの病気かもしれないこの病気かもしれないと考えて、この病気だったらこの薬が、この病気だったらこの薬がと何種類も薬をくれる。今の健康保険法では沢山薬を患者にやらないと金にならないのであるから、名医はいつも貧乏して、下手な土手医者の方が金持ちになるという仕組みになっている。
 政府は一県に一つの医科大学をつくった。やがて医者が氾濫して医者の失業時代がくる。薬代に使われる十兆円を、国民が自覚することによって五兆円に減らして、その五兆円を未来の日本、未来の世界をどうするかという研究費に使ってもいいし、また難民救済や後進国救済に使えばどんなにいいかと思う。医療に対する考え方を転換しなければいけない時にきているのである。


第九十章 病院は宗教家との交流を深めよ

 東京の永谷さんから新聞の切抜きが送ってきた。「正法」誌創刊号に書いて置いたように、医者で宗教に関心を持つ人が出てきた。

    医師  乾  元 66才
 末期ガン患者、死を待つだけになった寝たきり老人専用の病院、わが国初のホスピスが浜松市で、この春着工される。ホスピスは病気を「治す」という従来の病院とは違って、人間を「救う」「助ける」所といわれ、そのスタッフには、医師、パラメデイカルのほか宗教家を配置しているのが特徴。つまり、宗教家は、医者がもはや手の届かぬ病者の魂を救い、旦、その家族をも慰めようというのである。
 さて、ホスピスならずとも、大病院なら、以上のような死を待つばかりの患者の幾人かが必ずいるはずで、死を目前にして心の安らぎを切実に求めていると思う。それなのに、宗教家との交流が余りにも少ないように考える。欧米の多くの病院では専属の牧師がいて、自由に病室に出入りできる。わが国の刑務所にだって、死刑囚のために教誨師がいるではないか。 わが国の病院は患者の身体にばかり目を奪われ、患者の心、家族の気持ちを考えていないように思われてならない。ちなみに、米国の伝統ある病院には立派な礼拝堂があると聞くが、わが国の大学病院では死体安置室さえいかにも殺風景である。
 さいごに、わが国の病院に、ホスピスのように、宗教家を常置することは時期尚早かも知れないが、宗教家との交流を、もっと深めるべきであると考えている。宗教家との出会いによって、死を待つ多くの人たちに、心の安らぎをと私は願う。死よりも重大なことはないのである。  (宮城県柴田郡)

 私が昭和27年、宗教家として立つことを決心した時思ったことの中の一つに、全国の大病院には必ず、心を指導する宗教家を配置することを法律で決めるようにしたい。ということがあった。外国の病院は宗教家が自由に出入りできるというのであるが、日本の病院は宗教家の出入りを歓迎していない。乾医師のような医師がふえてゆくことを私は望んでいる。


第九十一章 仏教こそが生死の解決法

 同じ切抜きの中にこの一文があった。投書というものはその人一人の意見ではなく同じような考え方をしている人が外にも沢山あることを示すものである。世の多くの人々が、まさしく正法を求めているのであるということがこの一文からうかがえる。われわれはそういう人達の前にもっと正法の存在を知らしめなければならない。

  主婦  佐野喜久子 67才

 医師として医学の限界を感ずるのは、患者の死にあう時でしょう。死を止めることができない時、また一人死に向う人間をみる時、現代の医者は余りにも無力だと訴えられております。臨終の床に宗教家の力を借りることはできないか?と問題提起している医師がいられる。科学万能の時代から、人間の内面への思考に思い至った今日、必然的に宗教家の必要性に目を向け始めたようです。
 確かに仏教は死後のために説かれたものではありません。人間の生き方を教え、それによって人生の終結がきまることを教えています。坊さんのお説教や人から与えられたものではなく、自分が宗教を持ち、生活実践の中から感得した生命によって生死の解決をはかる以外にないと思います。
 どんな人でも、生老病死の四苦は免れません。四苦八苦の解決法を教えたのが仏教なのです。故に、正しいもの、力あるもの、そしてより高い教義を求めることが大事です。
〝従容として死につく〟とは、自分自身の生き方の結論ではないでしょうか。医学を否定せず、その限界に挑戦できる生命力を得るものそれが宗教であることを訴えたく思います。   (横浜市神奈川区)

  解説

 この法語の中で二つの投書を紹介した。このような内容の投書は、もし十年前であったら完全に没になって新聞に載ることは絶対になかった。新聞記者というものは無神論者、無霊魂論者で唯物論者が多い。新聞が宗教や心の問題を取り上げることは全くなかったといってよい。その新聞がこのような投書をのせるようになったということは、私は唯物論的な考え方による新聞の編集方針が変ったのではなく、新聞も読者が買ってくれないと困るのであるから、一般大衆のものの考え方が変ってきたので商業政策上、こうした投書も取り上げないと新聞が売れなくなるという考え方からのせたものだと思っている。
 そうであればあるだけに、新聞社といえども一般大衆の宗教指向、心指向の傾向は無視できなくなりつつあるということであり、そこに私は世の中が音を立てて変りつつあることを感ずるのである。
 さて、浜松にできるホスピスは、カトリック教会が建てるのであるから、患者はカトリック信者が主体で、患者が安らかに臨終するように心の指導をする宗教はカトリック教ということになるであろう。人間が死んで行くのに、カトリックの人はこういう臨終をしなさいとか、創価学会、立正佼成会、生長の家等各宗各派によって、その信仰によってそれぞれ死に方が違うというようなことがあるのであろうか。
 人間は宗教宗派を担いで生まれてくるのではない。生まれてくる時に、その家々の宗教宗派によって、そこに生まれてくる子供達はそれぞれの宗教宗派にふさわしい生まれ方をするというのであれば死ぬ時も、それぞれ違った死に方をするのだということになるのかも知れないが、生まれてくるのに、私が生まれる家は神道だから神道的な生まれ方をしましょうとか、私の生まれる家は立正佼成会だから立正佼成会式生まれ方をしましょうといって生まれてくるわけではないのであるから、死ぬ時も宗教宗派によって死に方が違うということはないのである。だから臨終に際して心が安らかであるようにという指導も一つであっていいので、それぞれの宗教宗派の指導者達が、それぞれ自分の所属の信者に対して、それぞれの宗教宗派によって臨終の時の心得は違うのですというような指導をもしすることがあったとしたらそれはまちがっているといわなければならないのである。
 宗教とは、なんのために、どのような生き方をするかを教えるものであるから、もっと生と死ということを忠実に見つめて法を説かなければならないのに今の宗教家は生と死をじっと見つめさせる。魂を見つめさせるということはせずに、単に道徳的なこの世の限りの生き方だけを強調している。
 浜松のホスピスの病院はカトリック系であるから問題は起らないのであろうが各大学病院がホスピスのあり方を採用するとした場合、入院している患者は、種々雑多の信仰をしている人があり無神論者もあるのである。そういう人達に臨終の心得を教えるということになった場合、神道の人には神主さんを、浄土真宗の人には浄土真宗の坊さんを、生長の家の人には生長の家の講師をとか、そんな繁雑なことはできないであろう。人間が死んでゆくのはみな一つの方法でしかないのであるから、その最後の臨終の心得を教えることができる一人の人があればそれでよいということになる。
 ついでに書いて置くが、アメリカの人間科学研究所では、薬を使わずに瞑想をさせることによってガンや糖尿病を治療するということが既に始められている。この研究所で指導している瞑想はキリスト教的瞑想である。それはキリスト教的というよりもキリスト教的雰囲気の中における瞑想で、瞑想はなにもキリスト教的雰囲気の中だけでしかできないというものではない。
 瞑想にしたってキリスト教的瞑想とか仏教的瞑想とか、今はわかれているように見えるが、もともと心を神にふり向けて瞑想するという方法は一つしかない。日本にもこれからホスピスがふえ、瞑想を治療に応用する病院がふえてくると、今までのように新興宗教が病気治しを教義にするということはできなくなる。
 丁度この原稿を書いている時、秋田市の女医さんが、心で病気を治すということをしているとNHKがテレビ放送していた。私は日本中の医者が早くこの女医さんのように、堂々と「心で治します」と宣言してくれるようになることを望んでいる。
 今の新興宗教がやっているような病気治しの面を全部医者がやることになり、夫婦の調和とか親孝行とか、いわゆる感謝という面は道徳的立場で取り上げればいいのであるし、そうなれば宗教で扱う分野は、「心と魂」という面だけになってくる。そうなった場合、今の新興宗教は心と魂の面を充分に指導することはできない。だから私が今の日本の新興宗教の役割りは終ったし既成宗教もまたそれを指導することはできないというのである。

 心と魂の面をよりよく指導できるのは正法しかない。

 医者がそのような指導をしても、全く医者の手に負えない病気がある。霊的現象即ち憑依によって起る病気はどんな薬をのませてもどんな治療をしても今の医学では治せない。瞑想をさせようとしても自分で自分の心がどうにもならないのであるから瞑想することもできない。憑依してくるのはそこに憑依霊を呼び寄せる雰囲気があるのであるから、患者以外の他の家族が協力してまず憑依霊に同通するような暗い争いの雰囲気をその家族からなくするということをしなければならない。

 新興宗教は病気治しを教義としているから、病気していた人がその信仰をして治ったということになると、指導者達は「あなたの信仰はすばらしい」とほめる。病気が治ったということは喜ぶべきことではあるが、必要以上にほめたゝえることはやめるべきである。病気になっていて治ったということよりも病気しない方がいいのである。健康で病気しないという人は病気にならないだけの心の強さがあるのであり、病気になった人は病気になるだけの心の弱さがあったということであり、病気が治ったという人は、やっと健康である人と同じ線になってきたというだけであった健康であったという人より以上に立派になったわけではない。
 新興宗教団体では、病気が治ってやっと一人前になった人を、健康体の人よりもりっぱな信仰ができているみたいにほめそやしている。から新興宗教団体では病気が治ってやっと一人前になった人のほうが威張って、健康体で病気しないという人の方がなにも人に眼を見晴らせるような体験がないので小さくなっているという現象が起きている。病気が治ったということよりも、病気もせず何ごともなく毎日々々無事で暮らせることがどんなにありがたいことであるかということに気づかないと、なにか変ったことがないと喜べないという心の状態では正しい信仰をすることはできないのである。
 病気をしている人よりも健康である人の方が多いのであるし、その健康である人がどのようにして心を大きく広くゆたかにして魂を向上してゆくかを宗教は本来説かなければならないのである。
 しかし病気をしている人も救わなければならないから心と病気、心と身体の関係も書かなければならないのである。



法 語    人を救うために         1980年12月28号

第九十二章 相手に感謝すること

 指導者、また人を指導しようとする人は、自分は正法を知っているが、あの人は知らないのである。だから自分が教えてやるのであるという思い上った気持ちを持ってはならない。そういう心を持ってすると、その指導は必ず失敗するか、または相手の反発を招くことになります。なぜかというと、そういう人の心の中には、自分を善と見て、相手を悪だと見る心があるからです。「お前は悪いからこの話を聞け」といわれると、人間というものは、たとえ自分が悪いということは知っていても「悪い」ときめつけられると遂々反発してしまいます。
 ではなぜ反発するのか。それはその悪いことをした自分(偽我の自分)は本当の自分ではなくて、そういうことをしてはいけないと知っている本当の自分(真我の自分)が本当の自分であるということを知っており、そのことをよく知っている自分、悪いことをしない自分、いつもよいことをしようと思っている自分、その自分が本当の自分だということをよく知っている(これを真の自分という)から「お前は悪い」といわれると「いや、その点は悪かったが、しかし、本当の自分はすばらしいのだ。本当の自分はそんな悪い自分ではない」といって反発するのです。
 本当の自分は悪いことはしない正しい自分だということを知っている心、その心を「自尊心」といいます。人間はみなこの「自尊心」をもっています。どこからこの「自尊心は出てくるかというと、それは「人間は神の子である」という自覚からです。
 だから、相手を悪いと見てすると失敗するし反発を招くので、たとえその人が悪いことをした人であっても、ただ一時の出来心であっただけであって、本当はこの人も神の子であると、相手の神の子の実相に感謝しながら指導をしなければいけないのです。


第九十三章 感銘を与える講演と、そうでない講演

 講演が終ると思われる頃からそわそわする人が多く、終ったとたんにサッと立ち上って帰る人の多い講演は、中味のない感銘を与えることができなかった講演です。「私はよく勉強しているが、あなた達は勉強していない。だから、私が教えてやるのである」というような態度で話をする大学教授達の話は、聞いていて「もっともだ」「いい話だ」と思っても、さて講演が終るとなにも頭の中に残るものがありません。講師の思い上った、人を軽蔑している雰囲気だけが妙に心にひっかかってしまいます。なにも大学教授だけに限らず、宗教の講師でもそういう人があります。
 「この講演によって愛を行じさせていただくのである」「みなさんの幸せを心から祈っているのです」「わたしはみなさんの幸せのために奉仕させていただきたいのです」「このような機会を与えて下さいましたことを感謝いたします」というような敬虔な謙虚な心を持っている人の話は人に感銘を与えるから、終ったからといってサッと立って帰るという人はなく、感銘を受けたその心の余韻をひしひしと味わって立ち去り難い思いを与えます。
 押しつけがましい話はいい話だと思っても反発を招きますが「あなたは神の子なのです。その神の子の生命をそのまま表現することがあなたの幸せなのです」という話は喜ばれ感銘を与えます。人に感銘を与える話は、その話を聞きながら、一人一人がみな「あ、この話はわたくし一人のために話をして下さるのである」という感じを持って聞き、聞きながらそれぞれにこれまでの自分の心のあり方を反省してゆくので、講演が終ったとたんに、これまでの人生苦、悩みが一ぺんで解決し、軽い病気ならその場で治るという奇蹟も起ってきます。
 愛のない説教は、人の心を固くするだけで一人一人の魂も救うことはできません。


第九十四章 愛とは、指導者の心のあり方

 「愛するからこそ叱るのである」、「愛するからこそ欠点をいうのである」といういい方が、道理に叶っているように思えるのに、なぜその努力の割に成果が上らないのでしょうか。愛するからこそよくなってもらいたいのであるといって欠点を指摘したがために、かえって、夫婦仲が、人間関係が、特に親しい間の親戚関係などがまずくなってしまったという例は、みなさんの周囲にいくらでもあると思います。どうしてでしょうか。
 愛とは欠点を見てそれを矯正しようとすることではなく、その人の痛い心の傷にふれることなく、その傷を真綿でやわらかくくるんで、その人の欠点の奥にある人間神の子の本当の相を、じっと愛の心で眺めやり、その人の神の子の実相が、自然に芽生え発想して、その人が自発的にいいことができるように、いたわり育ててやることなのです。
 愛するからという言葉で、その人がふれてもらいたくない、そっとして置いてもらいたい欠点に錐を刺し込んで、グリグリえぐるような言葉を使い、態度をとっている人がありますが、それは愛という言葉で美化した憎悪の心であります。愛とは人と人の心を一つに結びつける心でありますが、憎悪とは人と人の心をバラバラにして引き裂く心です。
 愛するという言葉で美化された憎悪によって、いかに悲惨な人生がつくられているか。
 天地宇宙を創造された神は「神はない」という無神論者をも憎悪せず、あたたかく抱擁して生かしていられます。太陽のような愛、時が来るまでじっと待つ愛、真綿のようなやわらかな愛…。
 真の愛は、すべての人を癒します。


第九十五章 人を救うためには
 
 正法を一人でも多くの人に知ってもらいたい、と思ったのに失敗した。なんの反応もなかったという人があります。なんの反応はなくても、あなたが人のためにしたというその心と行為は、ちゃんと心のテープレコーダーに記録されて天上界へ行く時の心の基準になるのですから失敗ではありません。また、聞いた人も、いつかは心の中に撤かれた正法の種子が発芽する時が来るでしょう。
 しかしまた、お釈迦さまが「縁なき衆生は度し難し」キリストが「豚に真珠を与えるな」といわれたように、どんなに人を救おうと思っても、その人の縁が熱さず、心の準備ができていなければ、折角の好意も徒労と見えることがあるものも事実です。なんでもそうですが、人を救うのにもあせってはならないのです。
 人生はいろいろな体験を積むことによって魂を向上させる過程です。どんな人でもやがては正法を知ることなしには、魂を向上できない階段に達するのですが、まだ、正法を知って魂を向上させるという段階にまで到達していない人もいっぱいいるわけです。どんないいことでも強制されると、余程心の大きい智慧である人でない限りは反対することが多いようです。
 正法は伝えてゆかなければなりませんが、人を救おうと力まなくてもよいのです。

 


 

第九十六章 積極的肯定的想念と消極的否定的想念
 
 何事によらず消極的否定的想念をもって暗い方からだけものを考える人は、それによって新しい不調和を生み出し、さらに輪をかけてますます不調和に悪くなってゆきます。自分自身だけでなく他人をも救ってゆけるような積極的肯定的想念は、雰囲気の影響を受けることはありません。
 「積極的肯定的想念」とは、秩序ある調和した波動の力。
 「消極的否定的想念」とは、分裂した混乱した無秩序な破壊的波動の力。
 「作用・反作用」、「動・反動」、「類は類で集まる」という法則によって、積極的、肯定的な明るい心を持つ人は、ますます幸せになり、消極的、否定的な暗い心の持ち主は、ますます不幸になってゆくのです。
 悟りは積極的、肯定的な明るい心の上にあるのであって、消極的、否定的な暗い心を持っていたのでは悟れません。


第九十七章 「物質本来なし」「肉体本来なし」という教義は間違い

 物質や肉体は、やがて消えゆく存在であるから、生長の家では「物質本来なし」、「肉体本来なし」といいます。たしかに非実在、非存在ではありますが、物質は物質として、肉体は肉体として存在意義があるのです。
 では誰が物質、肉体をこのようにして存在せしめているのでしょうか。つきつめてゆくならば、やはり「神がつくられた」ということになってきます。本来、人間は霊ですが、霊の修行のために神が地球をつくり肉体をつくれれたのです。 物質、肉体を否定することは、神を否定することになります。神を否定しては宗教は存在しえません。 物質も肉体も、やがて灰になって消えてゆく存在ではありますが、存在している間は大事にしなければいけません。

 肉体は心の状態を現わすバロメーターです。

 明るい心を持てば健康であり、暗い心を持つと病気になります。肉体の神秘さを見ると神の存在がわかるしかけになっています。目に見えるものだけがあるのではないので、目に見えないものも存在しているのです。
 
海の波は1分間に18回寄せては返します。世界中どこの海岸でも同じです。

18×2=36 36度が人間の基礎体温です。
36×2=72 72は1分間の脈拍数。
72×2=144 144は人間の平均血圧です。

 人間は満ち潮の時に生まれてきて、引き潮の時に死んでゆきます。女の人は月の周期に合わせて月経があります。

 人間の肉体は自然と連動してつくられています。誰がこのように自然と連動するようにつくられたのでしょうか。肉体が存在する必要がないのであったら、なぜ神は肉体をつくられたのでしょうか。
 生長の家の会員達も正法を知らないと、心は満足できないのです。


第九十八章 目に見えないものが存在する

 二十世紀の唯物科学を信じてきた人達は、「目に見えるものだけが存在する。目に見えないものは存在しない」といってきました。しかし、ここのきて、「目に見えないものが存在する」ということを、宇宙エネルギー科学者が証明しました。
 1991年8月、ボストンで開かれた「エネルギー変換工学会議」で「宇宙エネルギーとその装置」に関する部門がはじめて設けられ、空気中から電気を取り出す技術が発表されたからです。
 近い将来、宇宙エネルギー発電器ができて、それをのせると、自動車も飛行機も船も、各家庭の電気設備も、燃料はタダで、しかも無公害で走るし動かすことができます。電力会社も原子力発電もいらなくなってきます。
 福岡には既に宇宙エネルギー発電によってシェーバー(髭剃り器)をつくっている人がいます。

 21世紀は、宇宙エネルギー利用の世紀になってゆくでしょう。


第九十九章 人間は霊と肉体との二重構造になっている

 私が、宗教家として、これはすばらしいものが発見されたと喜んでいるのは、科学者が霊魂の存在を証明してくれたことです。今までは霊魂は存在するといっても証明のしようがありませんでしたが、これからは誰しもが霊魂の存在を信じてくれることになります。

 人間は、

   肉 体のエネルギー 
               > 一体 (色心不二)
   霊、心のエネルギー

 となったものであるといいます。

 今まで宗教家がいってきたようなことを、科学者がいい出してきました。霊魂は、意識と記憶を持った一つの生命体であり、霊魂が人間の本体であると。
 人間は死んでも、肉体を抜け出した霊魂はあの世に存在します。そして、その霊魂は輪廻転生するというのです。
 霊魂の話は、今まで宗教的なものと思ってきましたが、これからは日常の常識となってくるのであり、霊魂はないという唯物論者は、これから常識のない人ということになって、社会の落伍者になってゆくでしょう。
 仏教も、今まで残された経典をつぶさに調べて、釈迦の本意を知ろうと、釈迦滅後二千五百年間いろいろな努力精進を重ねてきましたが、もはやそのような努力は必要なくなってきました。


第百章 地球意識、宇宙意識(宇宙即我)、そして神

大地に草木が叢生して植物、動物、そして人間を生かしているのは、地球もエネルギーを持っている生命体であるからです。即ち地球精神(意識)があるからです。だから人間は地球精神に調和する心を持たなければなりません。地球精神に調和しない心を持った人は、天災地変によって生を中断されることになるのです。自分のことしか考えない、目先のことしか考えない視野のせまい心の持ち主は、地球精神にそぐわないことになります。
 この宇宙は、全体がコンピューターに制御されたように厳格な法則、規則によって動いています。これは宇宙には宇宙をこのように動かしている宇宙精神(意識)があるからです。
 その宇宙の創造者、造物主を、宗教的には「神」というのです。
 宇宙の仕組みを科学的に考えると、必然的に神の存在を認めなければならないようになってきます。
 人間が宇宙意識と一体だということを自覚した境地を「宇宙即我」というのです。
 この「宇宙即我」の悟りを得られた方が釈迦でありキリストであったのです。


終章 地上天国の実現、二十一世紀の人間像

 今まで過去の宗教家が何千年とかかって説明してもわからなかった真理を、いとも簡単に宇宙エナルギー科学者達が説いてくれるようになってありがたく思います。
 霊魂はエネルギーであるということがわかってきました。人生の目的は、個々の霊魂のエネルギーを宇宙大生命エネルギーに合一させることで、それが人格の向上であるといい、その人格の向上は他力信仰では得られないというのです。
 それはそうです。拝んでばかりいて坐ってお経ばかりあげていたのでは、心は少しも向上しません。心を向上させるのは自力でしかないのです。だから、宇宙エネルギー科学者達は、他力信仰の宗教団体は潰れて、あとの残るのは、釈迦、キリストの教えの原点を知った自力信仰団体のみだというのです。こうなると、釈迦、キリストの教えの原点を知って自力信仰を説いているのは、国際正法協会だけということになります。
 まわりを見ると、苦しみ悩んでいる人達がいっぱいいます。そういう人々に救いの手をさし伸べようとする愛と奉仕の心を持つと、その心が神の波動と調和して、人も救われるが、何よりも自分が救われてゆくのです。
 自分だけ救われればよいと考えている人は、神に波長が合わないのです。
 宇宙は調和しているのですから、われわれもすべてについて調和すべきです。
 地球精神、宇宙精神を持ち、愛と調和と奉仕の心を持った人が、二十一世紀を建設してゆかなければなりません。
 今のような日本の宗教界の現状が、そのまま二十一世紀へ引き継がれてゆくことは、誰も望んでいないでしょう。
 正法を知った「愛と調和と奉仕」の心を持った人々の力を結集して、二十世紀の迷妄を突き破り、輝かしい二十一世紀を創造してゆきたい。
 同志よ、結集せよ。



あとがき

 「正法」誌の法語は、1978年9月に始まって1980年12月、2年3ケ月で第九十五章で終わっている。どうして中途半端な第九十五章で終わらせてしまったのかわからないが、第九十六章から終章までを書き進めてゆく間に、最後の六章は宇宙エネルギーが開発されたこの日のために残されていたような気がしてならなくなってきた。
 第九十七章に生長の家のことを書いたのは、私自身生長の家の本部講師をいていて、「物質本来なし」、「肉体本来なし」の教義に悩まされてきたので、私と同じような悩みを持っている人を救いたいという心で書いたのである。
 「法語集」を「信仰の指針」としてまとめるにあたって感じたことは、十何年も前に書いたものであるとして捨ててはならない、今も信仰する人々にとっては大事なことが書いてあるということであった。
 神理は永遠に古く、また永遠に新しいものであるから、それは当然のことといえるが、これによって人々が「正しい信仰とはなにか」と言う事を知れば、そこから必然的に日本の宗教改革ができると思っている。この本をよんで正しい信仰をしようと思われる方は私とともに力を結集して下さい。
 とにかく正しい真理を知って、楽しい二十一世紀へ生きてゆきたいものです


  平成四年八月
                 園頭広周

 

http://www.shoho2.com/s2-8sinkounosisin.html

 

 

S1信仰の指針

高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします 法 語 集   園頭広周 先生 信 仰 の 指 針 ・・・ 正しい信仰のための101章 高橋信次先生のことば   

www.shoho2.com

 

읽어 보세요. 물론 무슨 말인지는, 알겠지요.

 

혼자 그냥 책 읽듯이 읽으실 거면, 자기식 사투리 및 말투로, 아 이런 말이구나, 그냥 넘어가면 되지요.

헌데, 공개하는 글이라서......

 

혹여나, 출처를, 밝히셔서, 제가 쓴 글들을, 올리실 때는, 

특히, 일본어가 있는 것은, 가급적이면, 함께 올려 주시면 좋겠습니다.

 

출처 없이 올리실 때는, 관계 없습니다. 

특히, 일본어 원본을 빼고 올리실 경우에는, 출처를 아에 달지 마시길 바랍니다.

 

제 번역이, 엉망일 수도 있으니까요. 알아서들 하세요.

 

가브리엘 대천사(archangel Gabriel)이 글이에요. 안 믿어도 됩니다. 자 볼래요.

번역하지 않은 글. 물론 번역된 글이 있어요.

 

 

아주 길다면 깁니다. 1은 예수그리스도의 말씀을 바탕으로 

2는, 석가모니 부처님의 말씀을 바탕으로. 

 

요즘 현대시대에서, 말하죠?

남녀평등. 아 말은 참 좋아요. 당연히 그래야죠.

헌데, 

평등에서, 남자의 역할, 여자의 역할이 있어요.

이것을, 

뺀, 평등이라. 아..요지경. 

 

읽어 보세요. 

번역이 잘못 되었네.

어쩌구.

저쩌구.

 

그래서, 제가, 

일본어 원본과 함께 올린다고요.

 

그래서, 일본어 잘하면, 알아서 원본만 따로 읽으세요. 아셨죠? 

 

저요?

돈 받고 하는 게 아니에요.

 

내가 2005년부터 아파서, 실재로 아파서, 자살하고 싶을 정도로 아파서, 용기가 없어서, 억울해서, 자살할 용기가 없어서..

파고 파고 파면서.

내 병 내가 고치자 하면서.. 아파도 타자는 칠 수 있으니까, 

블로그라는 것을 알아서,

..당시는, 공개가 뭔지, 비공개가 뭔지, 상업적이 뭔지, 저작권이 뭔지는 모르는, 

이 멍청한 놈이...

그냥 올려 놓은 것을, 누가 보고 오기 시작한 것이죠.

 

누가, 자기 시간 들여서, 어떤 사유인지는 모르지만, 공짜로 보여 주는 사람이 이 세상에 있나요?

툭하면, 저작권 어쩌구..

몇 마디 해주고, 상담료. 참.....나 그 딴 짓 안 해요.

 

 

그러다, 그냥 피곤하네, 다 없앨까 한 것입니다. 

 

영적이니, 

예수니,

부처니,

귀신이니,

악마니,

천사니

자유니

평화니

구원이니

본인들 스스로 판단하시고.

 

가브리엘 대천사, 사리불, 에브라임 링컨, ..

아무튼, 읽어 보세요. 

필요하면,

아주 

 

소노가시라 히로치가, 란 분이 말들은, 

일상생활에 꼭 필요한, 현실적인, 내용을 주로 말하고 있는 게 특징이죠.

 

일본의 정법지, 찾아보세요.

일상적인, 꼭 필요한 것들을, 꼬집어 말해요. 그래서 말이 좀 많아요. 

이 양반도, 설명을 잘 해 주려고 해서 그런지, 

말이 길어오. 길어.

 

짧게, 아, 여자, 아 여자구나, 끝, 이면 좋은데... 아주 길게 설명해요, 자세하게.

 

나, 외국어 잘 해, 하시는 분들 보시면 됩니다.

아, 읽어 보니, 별거 아니네.

헛소리 짓거리 짓거리고 있네. 해도 되요.

 

왜냐, 생각은 자유니까.

 

男の役割と女の役割 - 1 ・・・・・ キリストの言葉から  2... 




 1.心温まる話
 2.心が寒くなる話、恐ろしくなる話
 3.結婚・離婚
 4.なぜ、女は長い髪を誇りとするのであるか
 5.聖書と私
 6.男女は平等ではないのか






 1.心温まる話

 昨年11月、筑波の研修会が終わって私はある所に行った。
 その時そこのご主人が次のような話をして下さった。

 そこの家族構成は次の通りである。
父/母/長男-高校1年/長女-小学校6年/次女-小学校4年/三女-小学校2年 ・・・ 合計6人
今頃子供4人はめずらしい方である。
「家内が研修会に行ったその翌日、長男はいつも弁当を持って行くんですが家内がいないので、「お前は明日はパンでも買って食べなさい」と言ったら、あの女の子たちが、「お父さん、それはダメ、私達がお弁当作る」と言うんです。「いや、お兄ちゃんは朝が早いから、お前達は寝ていなさい」と言ったんですが、あの三人が六時に起きてお兄ちゃんの弁当を作って持たしてやったんです。我が子ながら立派なものだと思いました。そうして言うのです。「女は男に、お昼にパンを食べさせるようじゃダメ、朝もチャンとご飯を食べさせてやらなければ」そのお母さんは言われた。「長男は、あの小さな妹達が弁当を作ってくれたことにすっかり感激して、学校で「俺はいい妹達を持って幸せだ。妹達が弁当作ってくれた」と言ったら同級生達が「その弁当を見せろ」とみんな寄って来たと言うのです」と。私が泊まったその日の夕食も、その女の子達が作ってくれたのであった。

 そのお母さんという人は、高校二年生までは、お父さんが早く亡くなられたせいもあって親に反抗期であったのが、私が研修会を開いて「汝の父母に感謝せよ」という話をして以来、すっかり考え方を変えて、結婚してからはずっと「女の正しい生き方とは」ということを追及して来て四人の子の母親である。

 そのお母さんは言うのである。
 「今のお母さんたちの考えは間違っていると思うのです。子供が小学校へ行くようになったから暇になったから働きに出ると言っている。子供が小学校、中学校へ行っている時分が一番家庭的な躾や家事、特に女の子は女の役割を教える時期だと思うのです。PTAの役員を今しているんですが、殆んどのお母さんたちが働きに行っていて、働きに出ていないのは私だけです。少しばかりの金を求めて家を出て子供を台なしにする。私は主人の給料はそんなに多くないですが、それでも結構家族六人が幸せにやって行けます。

 ある時、私の家にPTAの婦人幹部四人が集まったのです。その中に一人、ご主人が一流商社に勤めている人があったんですがその集まりが終わった後、その人から電話があったんです。
 「あなたの家は瞬間湯沸かし器もないし電気炊飯器もないし、あなたのバイタリティーは全く魅力的だわ」と。女というものは、夫を生かし子供を生かして行く事の中に女の幸せはあると思うのです」と。
 その人は、夫や四人の子供にかかりきりでいる訳ではない。PTAの役員もすれば勿論正法会で世話もして、人が集まる時には二十人分位の昼飯は電気炊飯器なしでもサッと作って出すし、趣味として絵や刺しゅうなども立派に勉強しているし全く感心する。

 そのご主人は言われる。
 「男が客を連れて帰った時、女に嫌な顔をされることほど癪に障ることはないと思うのですが、
  その点うちの家内は感心ですな。何人連れて帰っても、ひとつも嫌な顔をせずもてなしてくれますから、
  これはありがたいです」



 2.
心が寒くなる話、恐ろしくなる話

 結婚してまだ半年にもならないというのにその妻は、朝の食事も作らず寝床の中から「行ってらっしゃい」と言うということである。駅で牛乳瓶を片手にパンの立ち喰いをやったり、ソバをすすったりしている人が相当に多いのは、殆んどがそういう奥さんを持っているのではなかろうか。夫にそんなことをやらせていたのでは、若いうちこそそれでいいかもしれないが夫の体は早くくたびれてしまうのではなかろうか。夫が早くダメになって困るのはその妻なのではなかろうか。

 夫のことも考えないエゴの固まりである若い妻たちに、お兄ちゃんに朝の食事をさせてちゃんと弁当を持たせてやった三人の小学生の話を聞かせてやりたい。

 私は今の若い妻たちが吸血鬼に見えたことがあった。
 ある所へ講演に行った。その時に聞いた話である。その人は長男に嫁をもらった。その奥さんは銀行に十年勤めていた人だそうであるが、新婚旅行から帰って来たその翌日、そのお母さんに「あの人の生命保険はいくら描けてあるんですか」と聞いたのだそうである。生命保険というものは、夫の側が、もし万一ということを考えて妻への愛情として自発的に掛けるのは美しいと思うが、妻の側から要求するのは夫の心を寒くさせるのではなかろうか。気の強い妻から強制的に保険を掛けさせられて「私は生命保険を掛けるために働いているようなものです」とやけ酒を飲んでいる人の話を聞いた事がある。その人の奥さんはそのご主人の身内の人達に「うちのお父ちゃんが死んでも保険が何千万円掛けてあるから、私は生活に困らないからいいですよ」と言っているのだそうである。無神経というのか非常識さにも程がると思うことであった。

 もっと腹立たしい悲しい思いをしたのはある新聞の「定年前の夫を持った妻の中には夫の退職金を目当てに離婚をして、その退職金を慰謝料としてもらって優雅な暮らしをしようと待ち構えている妻が増えつつある」という記事を読んだ時であった。定年で仕事も辞め、退職金を妻に巻き揚げられた男はその後の人生をどうやって生きて行くのであろうか。

 ある人達は「そんな女はごく僅かですよ、気にすることはないですよ」と言うかも知れない。しかし、私は全国を歩いて、そういう妻が増えている事を聞いているのである。ある人も言っておられた。「応接セットを動かして掃除しているうちに、ギックリ腰になって動けなくなってしまった。近所にいる長男の嫁に電話して「ちょっと鍼灸医の所まで連れて行ってくれない」と言ったら、「私はお母さんのために嫁に来たんじゃありません。私は○○さんの嫁に来たんです。私は○○さんを独占したいんです」それを聞いて私は悲しくて悲しくて、嫁が私の家に来た時は、その日の夕方の分にと買って来た野菜や缶詰めも持たせてやったりしていたのに」と嘆いていられた。

 
どうしてこういう若い女達が増えて来たのであろうか。終戦後の民主主義、男女平等という風潮の中で、学校教育でも男の役割と女の役割は教育されず、特に家庭において、親は子供を甘やかすだけで女の役割が躾けられていない結果だとしか言いようがない。

 こんな話を聞かされるたびに昔の人が「嫁を貰うなら親を貰え」と言った言葉は真実だと思うことであった。

 そういう若い女の人達が増えて来ているのは、その人達が悪いというよりも、その人達は女の役割というものを教えられていないからだと思う。知っていればそういう事はなかったのに知らなかったばかりに不幸になった失敗したということは沢山ある。だからお釈迦さまは、「無明」即ち「知らない」と言うことが苦しみの根源であると説かれたのである。キリストは男と女の役割についてどのように教えていられたかを考えてみたい。



 3.結婚 離婚


 
マタイ伝 第十九章
 「人を造り給いしもの、元始より之を男と女とに造り、而(しか)して、かかる故に、人は父母を離れ、その妻に合いて、二人のもの一體(いったい)となるべし。されば、はや二人にはあらず一體なり。この故に神の合わせ給いし者は、人これを離すべからず」


 コリント前書 第七章
 「われ婚姻したる者に命ず、命ずるものは我(キリスト)に非ず主(神)なり、妻は夫と別れるべからず。もし別れる事あらば、嫁がずしているか、又は夫と和らげ。夫もまた妻を去るべからず。女に不信者なる夫ありて偕(とも)にいることを可(よし)とせば、之を去るな。そは不信者なる夫は妻により潔(きよ)くなり、不信者なる妻は夫によりて潔くなりたればなり、然(さ)なくば汝らの子供は潔からず。然れば今は潔きものなり。不信者みずから離れ去らば、その離るるに任せよ。斯(かく)のごとき事あらば、兄弟または姉妹、もはや繋(つな)がるる所なし。神の汝らを召し給へるは平和を得させん為なり。妻よ、汝いかで夫を救い得るや否やを知らん、夫よ、汝いかで妻を救い得るや否やを知らん。唯おのおの主の分ち賜ふところ、神の召し給ふところに循(したが)ひて歩むべし」



 キリストは独身であって夫婦生活の経験はない。聖書を読んで思うことは、夫婦生活の経験を持たれなかったキリストが、夫と妻の在り方について実に的確な教えをしていられることである。そうしてその教えられる所は、お釈迦様が説かれたことと全く一致していることである。またそれは、日本の古神道が教えている男女の在り方、夫婦の在り方とも一致している事である。この男女・夫婦の在り方の一致点から見ても神理は一つであるといえるのである。


 
キリストの言葉を解説してみよう。

 マタイ伝 第十九章
 人を造り給いしものとは神のことである。神は元始にこの世界を陽と陰とに分けて造られ、人を男と女とに造られた。その男と女は夫となり妻となり、子を産んで父母となり子は成長して親と離れて結婚をし、二人は一体となる。だからその二人はもはや個々別々の二人ではなく一体である。このように結婚というものは、神のみ心によって結ばれたものなのであるから、自我をむき出しにして離婚をしてはならない。
 二人は一体となるということは、夫と妻とは心を一つにして生きなくてはならないということで、夫と妻の心が個々バラバラでいつも争い対立しているような事ではいけないということである。夫が出掛けるのに朝食も準備せず寝床の中から「いってらっしゃい」という妻は、夫の心と一つになっていない利己主義者で自我ばかりが強い女である。

 ともかく夫婦というものは心を一つにして生きて行かなければならないので、結婚というものは縁によって神が自然に結ばせられるのであるから、人が勝手に離縁させるという様な事はしてはならない。

 コリント前書 第七章
 「われ婚姻したる者に命ず、命ずるものはキリストにあらず、神なり」
 この言葉の中に私はキリストが神の権威を持ってこれこそが神理であるといっていられるその権威を感ずる。
 妻は夫と別れてはならない。解れる位だったら最初から結婚しなければいいのである。結婚というものは、夫と心を一つにして、この人生の目的を果たして行く事を決心してするものなのであるから、一旦、そう決心して結婚したからには妻は別れてはならない。だから必ず夫と調和しなさい。夫もまた勝手に妻を離婚するというようなことをしてはならない。

 妻が信仰を持っていて夫が信仰しない場合は、不信仰の夫は信仰している妻によって救われて行かなければならないのであり、また、夫が信仰していて妻が不信仰である場合は、その妻は夫の姿を見て救われて行かなければならないのである。そのようにして、お互いに相手の姿を見て心の勉強、救いの体験によって魂を成長させて行かなければならないのであるが、そういう事をせずお互いに反目ばかりしていると子供が色々と問題を起こして子供のことで困らされることになる。だから相手の良きを素直に認めて向上を心掛けるならば必ず救われて幸せになるのである。

 一方は正しい信仰をしているのに、一方は不信仰であるという場合、その不信仰をしている者が自ら進んで魂の勉強をしようとはせずに別れて行こうとする場合は、それは別れたいと言うままに分かれさせた方がよい。


 
キリストは先に、別れるくらいだったら結婚しない方が良いのだし結婚した以上はどんなことがあっても夫婦和解しなさいと教えられたのであるが、信仰していない者が信仰している者の足を引っ張って信仰している者の向上意欲を阻害し、その不信仰者が別れると言い出した場合は、その夫婦は一緒にいる限りお互いの魂を傷つけ合っていささかも人間性の向上にならないのであるから、そういう場合は離婚してもいいと言っていられるのである。

 新婚旅行から帰ってくるとすぐ夫の母に、「あの人はいくら生命保険を掛けているんですか」と言ったその新妻の夫は、結婚してまだそう長くならないのに、「わしは男として色々夢があったが、あいつに足を引っ張られてもうなんにも出来ない」と嘆いているというのである。私はこれを聞いた時、交尾が終わると雄を食い殺す雌のカマキリを連想した。昔は「弱き者よ、汝の名は女なり」と言ったが最近は「汝の名は男なり」と言わなければならないようになって来たようである。ともに極端から極端でよろしくない。中道でなければいけないのである。

 魂を傷つけ合って結婚以前よりは心を暗くして一生を終わりそうであったら別れて独身でまた縁があったら再婚して、少なくとも結婚する以前よりは心を明るく大きくして一生を終わらないと生きていた甲斐がないのである。
 たとえ夫婦の一方が信仰していないからと言って嘆く必要はないのである。もし不信仰の夫を持っているという人達は、そういう夫と結婚したことを嘆く必要はないのである。あなた方には、あなた方の心遣いと生活行為を通して如何にして夫を信仰の世界へ導くかという大事業が与えられてあるのである。その大事業に挑戦する事によってその妻の魂は向上していくのである。

 
神が人を造られたのは、神は争いを起こすことを欲していられるのではなくして、平和を招来せんことを望んでいられるのであるから、妻である方々よ、あなた方はどうして夫の心を平和にして上げられるのであろうか。また、信仰を持つ夫よ、あなたはどうして自分の妻の心を平和にしてやることが出来るのであろうか。それは唯々、神が定められた男女・夫婦の役割に従って行く以外にないのである。



 
4.なぜ、女は長い髪を誇りとするのであるか

 女は古代から長い髪の毛を持つことを誇りとしてきた。女は生まれながらにして長い髪の毛を持つものだと自然にそう思って誰も「なぜ女は男よりも長い髪の毛をしているのか」ということに疑問を持たなかった。

 日本では昔から「丈なす黒髪」とか「ぬば玉の黒髪」といって女は髪の毛を大事にして来た。昔の女性は、「夫に寝乱れた顔を見せてはならない」と、いつも夫より早く起きて寝乱れた髪をつくろい、ほんのりと薄化粧をして夫の起きるのを待ったものである。

 終戦後、男女平等と言うようになって女はみどりの黒髪をバッサリと切ってしまった。その黒髪と共に切り捨ててはならない大事なものまで切り捨ててしまったようである。その切り捨てた物は何かとこの文の中から読み取って欲しいと思う。

 女が男よりも長い髪の毛を持つことについてキリストは次のように言っていられる。
女が永い髪の毛を持っていることについて書かれたものは、このキリストの言葉以外には見当たらない。


 
コリント前書 第十一章
 我がキリストにならふ者なる如く、汝ら我にならふ者となれ。汝らは凡(すべ)ての事につきて我を憶え、且つ我が傳えし所をそのまま守るに因(よ)りて、我汝らを誉(ほ)む。されど我汝らが之を知らんことを願ふ。
凡ての男の頭(かしら)はキリストなり、女の頭(かしら)は男なり、キリストの頭(かしら)は神なり。全ての男は祈りを為し、予言を為す時、頭に物を被るは其の頭を辱(はずかし)むるなり。全ての女は祈りをなし、予言を為す時、頭に物を被らぬは其の頭を辱むるなり。これ薙髪(ていはつ)と異なる事なし、女もし物を被らずば、髪をも剪(き)るべし。されど髪を剪り或いは薙(そ)ることを女の恥とせば、物を被るべし。男は神の像(かたち)、神の栄光なれば、頭に物を被るべきにあらず、されど女は男の光栄なり。男は女より出でずして、女は男より出で、男は女の為に造られずして、女は男の為に造られたればなり。この故に女は御使(みつか)い達の故によりて頭に権(けん)の徴(しるし)を戴(いただ)くべきなり。されど主に在りては、女は男に由(よ)らざるなく、男は女に由らざるなし。女の男より出でし如く、男は女によりて出づ。而(しか)して万物は皆神より出ずるなり。汝等(なんじら)自ら判断せよ。女の物を被らずして神に祈るは宜(よろ)しき事なのか。汝ら自然に知るにあらずや。
男、もし長き髪の毛あらば恥ずべきことにして、女もし長き髪の毛あらばその光栄なるを。それ女の髪の毛は被り物として賜りたるなり。


 釈迦、キリストといわれる方は、神のみ心を誰よりも一番よく知って、その神の心を全人類に伝える使命を持たれた方であった。

 多くの宗教指導者達は誰々はこう言った。あの人はこう言ったといういい方をする。

 しかし釈迦、キリストは、それが神理である。神のみ心であると神の権能を持って言われるのである。それはまごう方なき(間違えようのない・確かな)絶対の神理である。

 
我がキリストとは、イエス自身の内に内在する神であり全知全能である宇宙の創造主である神である。その神の前に私が願うと同じように、私がいうことは神のみ心なのであるからあなた方はまた私に願いなさい。
 あなた方は、私が知っていることを皆あなた方に伝えたように、そのことを守って実行してゆくならば私はあなた方を祝福する。色々と私が教えたうちで特に次のことは良く知ってもらいたい。

 男の頭(かしら)の上には救世主があり、女の頭の上には男がある。救世主の上には全知全能の神がある。男は神に祈る時、また予言をする時頭にかむりものを被るということは男の頭であるキリストを辱めることになるのである。だから男は、そのままの心を持ってじかにキリストに、神に祈り且つまた予言をしなければいけない。

 しかし、女は祈りをしたり予言をしたりする時に、頭にかむりものを被らないということは、キリストを汚し、神を汚すことになるのである。それは頭をつるつる坊主に剃ったことと同じことになるのであるから女はかむりものを被らなければならない。もし、かむりものを被るということが出来ないならば髪を剪(き)ってつるつる坊主にするべきである。しかし、髪の毛を剪ってつるつる坊主に男のようにすることは女として恥ずかしいことだと思うのであったならばかむりものを被りなさい。

 男は神の姿に似せてつくられ、神の栄光を現わすためにつくられたのであるから頭にかむりものを被る必要はない。女は男の生命の栄光、尊厳の存在であって、男が女のために造られたことはないが、女は男のために造られたのである。


 キリストが出られたのはユダヤ教が大きな歪を持って説かれていた時代である。ユダヤ教では最初に男を造り、その男の肋骨を一本とって女をつくられたと説いていた。その為にこのような説き方をされたのである。しかしこの人間創造説は、男女の役割について説かれたものであって、男女ともに神の創造であり平等であることは直ぐ次にキリストが、男が女から生まれたということもなければ、女が男から生まれたということもない。女は男から生まれて来たのであるとこれまで永く伝えられてきたが、男もまた女からつくられたのであり、万物は皆神によってつくられたものであると言っていられることでわかる。

 キリストが出られた時代は、ユダヤ教が大きく歪められていて、キリストはそれを修正されるために出てこられたのであった。しかしやがてキリストはユダヤ教のラビの策略とローマ法王の命を奉ずる者によって磔刑になられるのである。そういう状勢の中で説かれたのであったから、なるべくユダヤ教徒達の反発を招かないように、かといって間違ったユダヤ教説に追随しないように苦心して説かれなければならなかった。だから、「されど主にありては」と前提して説かれなければならなかったのである。だからしてまた、「汝ら自ら判断せよ」と言わなければならなかったのである。

 
女の頭は男なりということは、妻という者は、神に祈る時に、自分の夫の生命を通し、夫に感謝し、夫を尊敬して祈らないと、その妻の祈りは効かれない。妻が夫を馬鹿にして夫を尻に敷いて祈ってもその祈りが効かれることは絶対にないということであり、それがウソであるかホントであるかは自分の廻りを見渡して見よ、そうすれば自然にそのことが判るであろうと言われるのである。

 女という者は、必ず夫の生命を通して祈らなければならないものであることの象徴として女は長い髪の毛を生まれながらにして自然に尊んで大事にすることになっているのである。だから、男が女みたいに長い髪の毛をしているということは男として恥ずべきことであるが、女が長い髪の毛を持っていることは誇りであり光栄とすべきであり、女は髪の毛を切るのを恥とするのである。


 女が夫を無視して何かを為したとしてもそのことの成功に反比例して、そのことの成功では償うことの出来ない不幸を背負い込んでしまっている例は私達の周りに沢山ある。
 子供は親の後ろ姿を見ている。父を無視して何でもやってしまう母を子供は絶対にいい母とは思わないのである。また子供が小さいうちは良いが、その子供が一人前になって来るとその子供は必ずそういう母親に反抗するようになる。

 終戦後、女が短く髪を切るようになって女らしくない女が増え、男が髪を長く伸ばすようになって男らしくない女みたいな男が増えてきた。女らしくない女は、夫や子供をダメにして自分が不幸になっているし、男らしくない女らしい男は女に甘えて女をダメにしている。自分は働かないで年上の女に働かせている女々しい男が増えて来ているがなまじっか男らしく振る舞って優しい男を食べさせている内に、子供まで出来てからその年下の優しい男に捨てられて泣いている年上の女を私は沢山知っている。

 男女平等と言う言葉に騙されて男が男らしさを、女が女らしさを捨ててしまった代償は余りにも大きかった。

 やる気のある能力を持った男が魅力を感ずるのは女らしい優しさを持った女である。まじめな女の人はまた、男らしさのない女々しい男には魅力を感じない筈である。

 夫と別れてもいいと思っている女の人はやる必要はないが、夫と共に生きたいと思っていられる女の人はキリストが教えていられるように、夫の生命を拝み、キリストの生命を拝み、そうして大宇宙大神霊たち神に祈って見られることである。その結果は必ず出て来る筈である。


 
子供のことで悩んでいるという女の人は、その子供を妊娠した時から現在まで、夫を夫として、親を親として立てなかったことを反省しなければならないのである。そのことに気づいて反省し、すべてに感謝できるようになれば治るべき病気は治るし勉強嫌いな子供は分相応に勉強もするようになるし家庭が明るくなり夫も生き甲斐を感ずるようになって来るのである。


 研修会の帰りに寄ったその人にとっては、子供が四人あっても、湯沸かし器や炊飯器はなくても、夫がお客を連れて来ても、とにかく何が起ころうと、ひとつも苦にならないばかりか、むしろ一つ一つが人生勉強として楽しみなのである。

 
釈迦・キリストが説かれた正法は、この人生を楽しみながら生きて行く極意の教えなのである。

 「女の頭は男なり」と言われたキリストの教えが間違いである。男女同権だからそんなバカなことはないと言われる人々は、この神理が事実であるかないか実験してみられるといいと思う。

 夫をバカにし、夫の言うことを聞かず、夫を軽蔑して祈って見られるといいのである。どう結果が出て来るか。それに反して、夫に感謝し、夫の心を尊重し、夫の意見に素直になって祈った時にどういう結果が出て来るか
正法は日常生活を大事にして行くのであるから事実を以て知ることである。



 
5.聖書と私

 私が教会の門をくぐったのは十八歳の時であった。
 父の病気によって向学の想いは断念しなければならなかった。鹿児島商業を卒業した仲間達はそれぞれ進学し就職して行った。病気の父を抱え、七人の弟妹たちを養ってゆかなければならない責任が小さな肩にのしかかっていた。その責任の重大さは感じていても、同級生達はそれぞれ飛び立って行ったのに、自分だけが鹿児島に残って家を継がなければならないことが、何か自分一人だけが取り残されたような気がして淋しかった。

 潜在的には鹿児島商業三年の時、女をこしらえて家を出た父を旅先で発見して背負い投げで投げつけた親不孝の罪の呵責があり、思秋期ではあるし恋愛、結婚という問題も考えない訳にはゆかなかった。病気の父と七人の弟妹を抱えて私の人生には絶対に失敗は許されないのであった。もし失敗すれば私は父の病気を治してやることが出来ないのは勿論、弟妹達を一人前にしてやることは出来ないのである。どうして自分だけがこんな運命に生まれついたのであろうか。運命はどうして決めらえるのであろうか。絶対に失敗しない生き方はどうすればいいのであろうか。この心の重荷を軽くする方法はないのであろうか。得意先の大人達に「人間は何のために生きるのか」を聞いてみても誰一人としてはっきり教えてくれる人はなく「まあ生まれて来たから死ぬ訳にはゆかないし、仕方なしに生きているのだ」

 そうした人生の悩みを求めて教会へ行ったのであった。
 牧師さんは主としてマタイ伝の山上の垂訓「幸いなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり、幸福なるかな、悲しむ者、その人は慰められん・・・・・・」と「天にいます我らの父よ、願わくば御名の崇められんことを・・・・・・」という主の祈りをせよと教えられ、キリスト教以外の宗教は邪教である。キリストを信じない者は永遠の地獄の火に投ぜられるのであると説かれるのであった。私は次のことに疑問を持った。「キリストだけが、人類の罪を贖うことが出来る救世主であったとしたら、神はなぜ人類がこの地上に誕生したその最初にキリストを降誕せしめなかったのであろうか。長い年月、人類が罪を犯すままに放置して置いて、なぜ今から二千年前にキリストを出して罪を救おうということをされたのであろうか。

 キリストが誕生する以前の人類の罪はどうしたら救われるのであろうか。キリスト教が日本に入ってきてから五百年にしか過ぎない。そうすれば我々日本人の祖先の全部はみな地獄だということになる・・・・・・」

「私が教会に行くことには父はご先祖様に申し訳ないと言って反対した。 するとこの父もキリストによって地獄へ堕とされるのか」「キリストを信ずる者は天国へ救うが、信じない者は永遠のゲヘナの火に投ずるという愛憎のはげしい神を自分は神とするわけに行かぬ」。

 キリスト教で説く神とキリストの愛が私には納得できなかった。私が求めている神はどんな人でも救う普遍的な愛の神であった。だから私は教会で説くキリスト教に疑問を持ってやめた。

 それから間もなく父のすすめで軍隊に行くことになって聖書を読む機会もなくなった。再び聖書を読み始めたのは、昭和二十一年四月に戦地から復員し、廃墟となった鹿児島市の露店で大正十二年印刷の小型の聖書を買った時からであった。今も私はこの古びてすり切れた聖書を大事にしている。

 復員してみたら父母も弟妹も米軍の空襲で全部死んでしまっていた。孤独のさみしさに堪え難くなると私は聖書の中から本当のキリストの愛を見出そうとひたすらに読んだ。読んで行く内に私には現在キリスト教会で説いている教えの中に大きな誤りがあるのがわかってきた。そうして牧師の人達がどんなに聖書を読んでいないかがわかってきた。日本のクリスチャンは本当はキリストの教えを知っていないといえる。

 家庭生活の経験を持たないキリストが、夫婦の道をはっきりと説いていられることに驚いた。
 キリストが説かれたその夫婦の道は東洋の道徳とも一致するのである。夫婦の道だけではない親子の道も一致するのである。

 東洋と西洋と、悉(ことごとく)正反対の立場に立つと思われていたものが、神理の面においては一致するものであることをはっきり知ったのは二十九才の時であった。この考えが間違いなく正しいものであることをはっきりと知ることが出来たのは、昭和四十三年三月、高橋信次先生の教えを受けた時であった。

 神道と仏教とキリスト教が同じ神理を説いているのである。

 「男と女の役割」の中で私はそのことをお知らせしようと思うのである。

 はっきりいえることは現在キリスト教会で説いているものは真のキリスト教ではない。

 仏教とキリスト教が一致していることについて、ある有名な仏教学者が書いていられるものがあるが、これはパウロと親鸞聖人の言行が一致点が多いことを書いたもので真の意味において仏教とキリスト教の一致を説いたものとはいい難い。

 高橋信次先生が、説かれた転生輪廻の話しを聞かれた方には、キリストの弟子であったパウロが後に日本に親鸞聖人として生まれられたのであることを知っていられるであろう。パウロと親鸞聖人といってもそれは同一人物であったのであるから、説いたことが同一であるのは当然のことである。

 キリストは「天にいます我らの父よ」と、じかに神に祈ることを教えられたが、パウロは、イエス・キリストという個人のみ名を通さなければ救われないと説いた。これは親鸞聖人が、念仏を唱えるという手段を通して阿弥陀如来に頼まないと救われないといわれたことと同じである。

 お釈迦さまは夫婦の道をどのように説かれたかはキリストが説かれた夫婦の道が終わってから書くことにする。この文を読んで行かれるうちに仏教とキリスト教は違うということで閉ざされていたあなた方の心は大きく開かれていくであろう。



 
6.男女は平等ではない

 「女は、夫の生命を拝んで神に祈らないと女の祈りは効かれないのである」と前に書いたことに対して、 男女平等が正しいと主張する人達は正法は男女を差別すると思われたかもしれない。

 キリストはどのように教えていられるのかを見てみよう。


 
エペソ書 第五章
 「詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、また主に向かいて心より且(かつ)うたひ、かつ賛美せよ、
  凡(すべ)ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを
  畏(かしこ)みて互いに服(したが)へ。 妻たる者よ、主に服ふごとく己の夫に服へ。教会のキリストに
  服ふがごとく、妻も凡てのこと夫に服へ。夫たる者よ、キリストの教会を愛し、之(これ)がために己を
  捨て給いしごとく、汝らも妻を愛せよ。夫はその妻を己の體(からだ)のごとく愛すべし。妻を愛するは己を
  愛するなり」


 コロサイ書 第三章
 「妻たる者よ、その夫に服へ、これ主にある者のなすべき事なり。
  夫たる者よ、その妻を愛せよ、苦(にが)きをもて之をあしらふな」


 テトス書 第二章
 「若き女に夫を愛し、子を愛し、謹慎(つつしみ)と貞操(みさお)とを守り、家の務めをなし、
  仁慈(なさけ)をもち、己が夫に服はんことを教えしめよ。これ神の言葉の汚されざらん為なり」


 コリント前書 第七章
 「夫はその分を妻に尽くし、妻もまた夫に然(しか)すべし。妻は己が身を支配する権をもたず、
  之(これ)を持つ者は夫なり。斯くの如く夫も己が身を支配する権を有(も)たず、之を有(も)つ者は妻なり」


 
神理を求めるお互いの間で話し合われ、語り合われるものは、自然の美と真実とが言葉となって迸(ほとばし)り出た詩と、その自然の神秘さを讃える言葉と、天上界より発する霊の啓示の歌とでなければならない。
イエス・キリストが説かれたものは父なる神、宇宙の大神のみ心なのであるから、キリストの言葉に服従して実行しなさい。
 妻たる者は、人々が主なる神のみ心に素直に従うと同じように自分の夫に素直に従いなさい。
夫たる者は、キリストが多くの人々のために自分を捧げられたと同じようにあなた方も自分の妻を愛しなさい。夫が妻を愛するのは、夫が自分の身体を大事にいたわると同じように妻を愛しなさい。妻を愛するということは実際は夫が自分を愛し大事にすると同様であって同じことなのである。

 男といえども精神異常者でない限り、自分で自分の身体を傷つける者はいない。みな自分の身体を大事にする。妻を愛するということは自分で自分の身体を大事にするのと同じであるということはもっとはっきり言えば、妻を愛するということは自分を愛することであり、夫が自分を愛するというその愛の心と、妻を愛するという心に距(へだた)りがあってはならない。妻もまた自分であるということである。
 だからしてコロサイ者の中では、夫たる者は、妻の心を悲しませたり、怒らせたり、不安にしたり、ともかく妻が苦い思いをするようなことはしてはならないというのである。


 多くの夫婦の不調和というものが従来は夫が妻を苦しめるというものが多かった。男子中心の武家政治の社会体制は、女に忍従を強いることが多かった。女は男の横暴に堪えることが女の徳とされた。このようなあり方は夫が我が身の如く妻を愛するということにならない。終戦時の民主主義、男女平等が確かに女性の心を開放させたという事実は否定できない。女性の心、立場を無視した男性の横暴は批判されても仕方のないものがあった。「二号、三号持つのは男の甲斐性だ」ということによってどれだけ妻が悲しい思いをさせられてきたか。終戦前は夫が二号を連れて来ても本妻はニコニコして出迎えるのがいい妻だといわれていたが、顔で笑って心で泣いてということも辛かったことであろう。

 しかし終戦後の女性解放が行き過ぎて、現在は女が強くなって男が弱くなり、子供まで巻き添えにして大きな社会問題となって来た。右に大きく振れていた振り子が反動的に大きく左へ振れたままであっては中道ではない。現在の男女夫婦のあり方が行き過ぎだからといって戦前の状態に戻していいとは誰も考える人はあるまい。

 ではどうすればいいのか。

 それにはコリント前書の言葉を味わうべきである。

 「夫はその分を妻に尽くし、妻もまた夫に然かすべし」
戦前は、夫がたとえどんな無理難題を言おうと、妻はただ黙って一切逆らわずにハイハイと素直に従うことが女の美徳とされた。こうした戦前型の女の美徳が正しいものであると説いているある教団では「夫が泥棒するといったら妻も一緒に泥棒すればよい」と教えていた。

 
「夫はその分を・・・」と書いてあるがその分をということはどんなことであろうか。
 夫婦の縁は天上界からこの地上界に生まれて来る時の待機所で結ばれる。夫の魂は今度は地上に出て行ってどういう勉強をしなければならぬかをよく知っている。その魂の勉強をするのに一番ふさわしい人を自分の妻として選ぶのである。夫にとっては、妻のいい所、悪い所の全てが夫の魂を磨く勉強の資料なのである。いい所は愛するが、悪い所は愛さないというのであってはいけないのである。いい所も悪い所も全て含めてそのまま愛して行かなければならないのである。その分をとは、是非善悪、愛憎も全て超えた所の愛を以ってということであり、妻もまた夫をそうしなければならないというのである。

 私が不調和であった時、妻のいい所はいいとしても、妻の欠点が鼻持ちならないほど嫌であった。だから、その悪い所を指摘してそこを良くさせようとしていた。そういう気持ちでいる間は上手く行かなかった。

 所がある時、妻が悪いと言っているのは実は私自身の心の中に妻を裏切っている心があることの、反省であるということに気がついたのであった。

 私には妻と結婚する前に初恋の人があった。婚約までしていたのであったが、私はその人を忘れることが出来ないでいた。事毎にその人と妻とを比較していた。

 妻を愛せないという原因は実は自分自身の心の中にあることに気づいたあのであった。

 だから相手を愛せないという人は、その原因は自分自身の心の中にもあるのであることを反省しなければならないのである。

 私が沢山の人をこれまで個人指導した体験では、夫婦の不調の原因の80%は結婚前に好きな人があってその人のことを忘れられないということにあった。後の20%は、嫁と姑との関係で夫に不信感を持っているとか、金の問題、子供の問題等であった。しかしそれらの問題も夫婦がしっかり愛し合っていさえすれば解決できる問題である。

 初恋の人の写真やラブレターを、夫に隠してこっそり持っているという人もあった。
 私自身の体験と、私が指導した体験から知ったことは愛情は純粋でなっければならないということであった。純粋に愛し切った時、人間はその人の為には命を捧げても悔いはないと思うものであるし、純粋に愛する男性は、愛する女に自分の子供を産ませたいと思うし、純粋に愛する女性は、愛する人の子供を生みたいと思うものである。

 
その分を尽くし・・・とは、全身全霊を持って純粋にということである。
 しかし最近はこうした愛の自覚なしに性の享楽遊戯が行われている。

 
「妻は己が身を支配する権を持たず これを持つものは夫なり」とあるが、妻は自分の身体は自分のものだと思って、夫の心を無視して自分の好き放題に勝手に自分の身体を使ってはならない。妻は自分自身の身体を動かす時、その行為は夫の心に叶うものであるかを考え、夫の心に添うようにしなければならない。何かをしようとするときは常に、夫に聞いて夫の心に添う形で行為しなければならないというのである。

 妻が夫の心を無視して働きに出たために、家族が滅茶苦茶になってしまったという例は沢山ある。夫だけではない、少しばかりの金を欲したばかりに子供をダメにしてしまったという例も多い。
 これだけだとキリストの教えは戦前の封建的な婦徳(ふとく・女子の守るべき道徳)と同じだということになる。

 しかしキリストはまた次のように言っておられるのである。
 
「斯くの如く、夫も己が身を支配する権を持たず、之を有(も)つものは妻なり」と、だから夫は何かをしようとする時は、そのことが妻の心に叶うものであるかどうかを考えなければならないのである。自分がしたいからといって妻の考えを無視し、妻が喜ばないことを夫はしてはならないのであるということである。

 鹿児島は封建制の極端に強い所であったし、私自身軍隊生活が長いこともあって、今まで書いたような聖書の言葉はよく知っていても、実際生活となると妻の心を無視した横暴なことが多かった。そんなことは失敗するといえばなお反動的に意地を張って、今にもの見せてやると強行した。妻が言う通り失敗すると「お前が失敗すると思っているから失敗したんだ」となお意地を張った。結果は妻のいう通り全部失敗したのであった。そうして裸一貫になってやっと目が覚めたのであった。

 妻の心を無視してやることで成功することは一つもない。一時成功するかのように見えたとしても、それは尚一掃手痛い打撃を受けて大きく反省しなければならないためのものでしかなかった。こうした失敗の反省から夫というものは妻の心を無視し、妻の心を苦しめては何事も成功しないとキリストが言われた神理の正しさを知らされたのであった。嘘だと思う人は妻の反対を押し切ってやってみられるといい。どういう結果が出るか。

 
かくして夫と妻とは平等にお互いに愛し合わなければならないのであるが、妻の役割については、女というものは夫を愛し、子供を愛し、貞操を守り、慎み深く、慈しみをもって家事万端を整え、夫をして家のことは心配させないようにしなければならぬ。それが神が定め給うた他女の道だというのである。

 昔から妻が夫に従うのは女の道として当然だという考え方があった。キリストはそれだけではいけないのである。夫もまた妻の心に従わなければならないと教えていられるのである。

 
「不信者なる夫は妻によりて潔くなり、不信者なる妻は夫によりて潔くなりたればなり、然なくば汝らの子供は潔からず」とあるように、お互いが共に向上することをせず争ってばかりいたならば「汝らの子供は潔からず」とあるように、子供が病気をするか死ぬか、また子供が健康で元気であれば非行暴力というようなことで子供のことで苦労することになるというのである。

 子供が大きな病気をした時、子供が思いがけず死んだりケガをしたりした時、夫婦が調和していたかどうかを考えて見られるといい。キリストの言葉がまさしく真実であることを知られるであろう。

 この世の中に偶然ということは絶対にないのである。そのことが起こる為には必ずそのことの原因があるのである。ただ原因と結果との関係を知らないために偶然といっているだけのことである。



 
テモテ前書 第二章
 「神は凡ての人の救われて、真理を悟るに至らんことを欲し給ふ。この故にわれ望む、男は怒(いか)らず争わず、何れの処にても潔き手をあげて祈らんことを。また女は恥を知り、慎みて宜(よろ)しきに合(かな)う衣にて己を飾り、編みたる頭髪(かみのけ)に金と真珠と値貴き衣とを飾とせず、善き業をもて飾りとせんことを。これ神を敬はんと公言する女に適える事なり。女は凡てのこと従順にして静かに道を学ぶべし。われ女の教ふることと男の上に権を執ることを許さず、ただ静かに為すべし。それアダムは前に造られ、エバは後に造られたり。アダムは惑わされず、女は惑わされて罪に陥りたるなり。然れど女もし慎みて信仰と愛と潔とに居らば、子を生むことによりて救はるべし」



 「神は凡ての人の救われて、真理を悟るに至らんことを欲し給ふ」とあるようにキリストを信ずる人だけを救えばいいとはいっていられないのであるが、しかしそれには真理を正しく知らなければいけないので、間違ったことを信じていたのでは救われないのである。

 
キリストの弟子達がキリストを信ぜよといったのは、当時においてはキリストのみが正しい真理を説いていたからであるが、我々が救われるのは、キリストという人を通して救われるのではなくて、キリストが説かれた神理を信じ実践した時に救われるというのである。

 それ故に、男は怒ってはならず、争ってもいけない。どこにいようが潔らかな心で神に祈りなさい。

 しかし、女は女としての分を知ってそれを逸脱せず、慎ましやかな自分に相応(ふさわ)しい衣服を身に着けて、髪の毛を編んで、その髪に金や真珠の高価な飾りをつけたり、またきらびやかな高価な衣服を着て派手に振舞ったりせず、善い行いをすることによってそれを自分の飾りとすればよいのである。

 それが神を正しく信ずる女のあり方である、というのである。女というものはいつも慎ましやかに従順で、立居振舞も静かにして神理を学ぶべきである。


 ここでキリストがまたはっきり言っていられることがある。

 それは、女が男の上に立って権力を握って男を自分の思うままに支配しようとしたり、また、男の上に立って女が神理を説くというようなことは絶対にしてはならないというのである。この二つのことを犯すことは「われ、これを許さず」という当非常に強い言葉を以って言っていられることに注目すべきである。

 キリストのこの言葉に照らして見る時に、女が教祖になっていたり、女が実験を握っている宗教団体は、神の意志に叛いているのであるということであり、ましてその女達が、きらびやかな服装をして信者の前に表れることなどは全く神を無視した行為であるというのである。

 日本の宗教界の現状を見る時に、女が実権を握っている教団がいくつかある。男の教祖が亡くなって、その未亡人が、または娘が跡を継いでいる教団もある。そういう所は必ず混乱分裂が起こっている。
女が教祖になって男が組織指導の責任者を持っている教団もあるがその教団も分裂している。こうした実情を見る時に、キリストが説かれたことは真実であると信じない訳にゆかないのである。

 
どうして女が男の上に立って権力を握るということはいけないのであるか。
それは、神が人をつくられる時に、神はまずアダム(男)を先につくられ、そののちにエバ(女)をつくられたからであり、アダムは蛇の誘惑に惑わされなかったが、エバは惑わされて罪に陥(お)ちたからであると。

 蛇は地を這うもの、地に密着して生きるものである。だから蛇とは、物質に対する欲望、執着を意味するのである。物質的な欲望や執着を持った女が上に立つと、その欲望執着があるために正しい判断ができず、まして神理を説くというようなことは絶対に出来ないのであるという事である。

 そうして最後にキリストは、女はどうあるべきかを説いていられる。
女は慎み深くして、心を潔くし、愛深くあり、そうして正しい信仰をして、そうした心で、子供を生み育ててゆくならば女は救われるのであると。即ち女の役割は、家を守り立派な子供を育てることにあるというのである。


 女が子供を育てることはいらない、女も男と同様に社会の第一線立って活動すべきであるという女があるが、特別の使命と才能を持った女が男に伍(くみ)して活動することはいいが、だからといって世界中の女がみな子供を産むことを放棄して男と同様に働くということになったら、子供は一人も生まれないから世界は破滅することになる。

 男と同様に働くという女よりも、慎ましく家庭を守り、子供を育てることに喜びを感ずる女の人の方がずっと多いのであるから、新聞や婦人雑誌などで、特殊な例外的存在である一部の婦人活動家だけのことを載せないようにすべきである。

 
男が現実の社会を改造し建設してゆくこともすばらしいことであるが、女が子供を生み、その子供がやがて成長して社会とどう関わってゆくか、未来社会を理想的に建設する人間をつくり上げることは、男が現実社会に関わる以上にすばらしいことなのである。

 子供が小学校に上がるようになって暇になったからといって、少しばかりの金を目当てに職を求めると、やがてその子供のために泣かなければならないことも起こって来るであろう。

 では母子家庭はどうすればいいのか。母子家庭では母親が働きに出ない訳にはゆかない。こういう場合にこそ、援護は政府の仕事だといわないで、夫が働いている家庭の主婦達が同じ女性の立場として、その母親を援助してやればよいのである。

 ところが本来愛が深いとされ、またそう思われている女が、同性の弱い人、恵まれない人を見ると、以上に興奮して惨虐性(さんぎゃくせい・むごたらしくいじめること)をむき出しにしてそれらの同性を虐めて、自分よりもすぐれて恵まれて才能があるという女性に対しては全く猫みたいに柔順になって奉仕するという傾向があるように思える場合がある。

 弱い人、恵まれない人々をこそ助けてやるべきである。しかしまた反面、女性は、同じ女性から助けられることを望まないようにも見える。同じ同性から助けられることは軽蔑侮辱されていると思うのであろうか。そうした意固地な心が実際は自分を不幸にしているのであるから、そういう心をなくしてもっと素直にすべてに感謝できるようにならないといけないのである。

 新年号では「女の頭は男なり、されば女は長き髪の毛を賜りたるなり」とうことで、男と女の縦の役割を主として書き、この二月号では「夫は己の身体を愛するが如く妻を愛し、妻もまた然かすべし」という男女平等のあり方を書いた。

 これが正しいかどうかは実践してみればわかるし、また何もわざわざ間違ったことを実践しなくとも、周囲の人を見れば成る程とわかられるであろう。

 
男は男として女は女としての役割を果たす時に幸福になるのであり、その役割を怠り逸脱する時に不幸になるのである。それが神理なのである。

 

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11 男の役割-1

高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします 男の役割と女の役割 - 1 ・・・・・ キリストの言葉から  1.心温まる話  2.心が寒くなる話、恐ろし

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2.

 

男の役割と女の役割 - 2 ・・・・・ 釈尊の教えから




 1.原始キリスト教団と原始仏教教団の共通性
 2.釈尊は男女夫婦のあり方をこう説かれた
 3.釈尊は恋愛の純粋性について説かれた
 4.釈尊の教えから ・・・ 1
 5.霊の段階の高い人はより多く奉仕しなければならない
 6.性と結婚
 7.釈尊の教えから ・・・ 2
 8.妻のあり方
 9.永遠の父性と永遠の母性
10.なぜ「おっ母さん」といって死ぬのかなぜ「瞼の母」というのか
11.夫がなぜ自分の妻を「かあちゃん」とよぶのか





 1.原始キリスト教団と原始仏教教団の共通性

 新年号と二月号に於いて、聖書の中に示されている男女、夫婦のあり方を書いた。キリストは独身者であったが、正法神理を悟られた方であったから男女夫婦のあり方も正しく説いていられるのである。

 およそ人間というものは、男と女という区別があり、その男と女は大部分が結婚をして子供を生むのであり、人間的に生きるということは、男か女か、また結婚をして生きるのであり、男でもなければ女でもないどちらでもないとう生き方は出来ないのであり、その、人として生きる道を説かれると使命を持たれた方が男女夫婦の道を説かれるのは当然であり、説かれなかったと考える方がおかしい訳である。しかし、現在、教会において牧師が聖書の中に示されてある男女夫婦の道を説くことはほとんどない。そればかりか「性欲は罪悪である」と説いている。私の青春時代の悩みの大部分は
「なぜ性欲が罪悪なのであるか、性欲が罪悪であるならば、なぜ神は人間が性欲を持たず罪を犯すことがないようにつくられなかったのであるか」という煩悩に費やされたのであった。

 キリストは未亡人について次のように説いていられる。

「夫と別れた妻は、夫への貞淑さを守ってその子供を正しく育てることである。もし、その妻が、性の問題を処理し切れないならば姦通の罪を犯さないように再婚すべきである」

このようにキリストは親切に愛深く教えていられる。

 二月号「高橋信次先生随聞記、大日如来と卑弥呼」の所に書いたように、釈尊が強く説かれなかった「愛」を正しく説くために大日如来が出現され、さらにキリストを出して愛を説かしめられることになったというのであり、聖書の中には男女夫婦のあり方も正しく説かれているのであるのに、なぜ教会の牧師はそれを説かなかったのであるか。それは「潔くなければ神は救い給わない」と考えた聖職者達が性いうものを罪悪視して独身であったために、性の問題で苦悩し性の純潔を守るために必死であった男女夫婦のあり方にまで心を及ぼすことが出来なかったのが原因だとしか考えられない。

 しかし、聖書には、はっきりとその道が残されているのであるから、たとえ聖職者であってもキリストが説かれたことを正しく伝えようとした人があったわけである。正しくそのように伝えた人があっても、現在、教会ではそのことについて説かれていないのは、その間の聖職者達が敢えてそこは見ぬふりをしてか或いは全く見逃して歪めて説いてきたとしか考えられない。

 中世期、トルコがキリストの聖地エルサレムを占領した。その聖地奪還の戦争がローマ法王によって計画された。それが十字軍戦争である。ヨーロッパからの遠征軍はことごとく敗れた。最後にローマ法王が考え出したことは、「大人は性によって汚れているから神が味方されなかったのである。だから性の汚れを知らない十才から十五才位の少年をやったら、その少年達を神が祝福されて必ず戦いは勝つであろう」ということで少年十字軍が送られたのである。そういう少年達がトルコの勇敢な大人の軍隊に勝つはずがない。見事に敗れ去った。
この時にヨーロッパのキリスト教徒達はローマ法王の間違いに気付き、歪められたキリスト教の教えに気付かなければならなかったのである。歴代のローマ法王自身もこのことについては反省しなかった。少年十字軍を遠征させた原因は「性は罪悪だ。神は純潔を尊ばれる」とローマ法王が考えたことにあったのであるが、依然としてその考え方の間違いは修正されずに、牧師は独身であることが定められ、キリストに全てを捧げる修道女の制度がつくられた。性生活の経験者は道を説き道に奉仕することは出来ないという訳である。
性というものがこのように罪悪視されることになったのは、キリストが独身であったために、そのキリストにあやかりキリストに学びたいという気持ちがあったと同時に、その当時の社会状態が性に対しては非常にルーズであり、性に対して超然とした姿勢を持つ者でないと大衆から尊敬されなかったという事情もある。

 これと同じ状態が原始釈迦教団の中でもあった訳である。

 釈尊は出家された。インドには五千年前から出家して法を求めるという習慣があった。菩提樹の下で悟りを開かれた釈尊は、妻やショダラと一子ラフラを迎え入れようと考えられたこともあったがしかしそれは出来られなかった。釈尊の下に帰依する人達が次第に多くなり、独身者ばかりの釈迦教団がつくられていった。そのうちに釈迦の育ての母親パジャパテー外カピラの女性達が帰依して比丘尼の集団が出来た。出家したとはいえ男の集団と女の集団が同じ所にいれば、当然男女関係が生まれてくる。その度に厳しい戒律がつくられて行った。戒律は最初からつくられたのでなかった。問題が起こる度に釈迦教団全体の統制を保つために後からつくられて行ったのである。だから最初から間違いがなければ戒律など必要はないのである。

「たとえ毒蛇の口の中に男子の性器を入れても、女の陰部にそれを入れてはならぬ」ということを釈尊が言われたのは、余程目に余るような比丘と比丘尼の交際があったからである。そう言われてその迷いの源を断つといって自分の性器を切り取った比丘もあったのである。

 釈尊自身がカピラ城内での自分を取巻く女性達の確執を見られ、その煩悩の浅ましさを感じられ、釈迦教団のそういう状態があり、また当時の社会情勢が性的に乱れている中においては、性に関して、性に関して、男女夫婦のあり方については極力説くことをされなかったことは充分に考えられる。

 また独身の弟子達が、各地に散って法を説くという場合、男女夫婦のあり方について説くと言う事になれば当然、性の問題に触れなければならないことになるし、禁欲の生活をしている弟子達がそのことを説くと言う事になればこれまた当然、そのことについて心が怪しく揺れ動くであろうし、常に心の安らかさをモットーとしている者としては極力そのことには触れまいとすることもまた無理からぬことである。

 
そうして代々、法を説く者は釈尊に倣(なら)って出家した。日本の坊さんも本来は出家であった。この出家の禁を破ったのが親鸞聖人であった。今でも禅宗の坊さんは独身が多い。スリランカ、タイの坊さんは出家である。
キリスト教の牧師が独身であると同じように坊さんも独身であるのが伝統であった。だから教会で男女夫婦のあり方が説かれなかったと同じように、日本のお寺でも説かれなかった。それだけでなく「女はおなごといって、男よりも女は業が深いのである」とか「女人禁制」といって女は汚れたものとして扱われて来た。

 原始仏教教団の僧達は女は救われざるものとして説いてきた為に、大乗仏教時代になるとさすがにこの誤りに気付き、それを修正しようとして「女は女のままでは救われない。女は一ぺん男に生まれ変わってからでないと救われない」という「変成男子」ということが言われるようになった。しかしこの「変成男子」という考え方の中にはやはり女は救われないという女性蔑視の考えが潜んでいる。


 釈迦教団と原始キリスト教団のあり方を比較してみると、同じ過ちを犯している事がよくわかるが、そうしたあり方をしないとその当時にはそうでないと受け入れられなかったという社会的背景を考えなければいけない。

 そのことを考えると、
正法が説かれるには正法が説かれるに相応しい時代があるということを考えさせられる。だからといって釈尊が男女夫婦のあり方について説かれなかった訳ではない。キリストがその道を説かれたと同じように釈尊もその道を説かれているのである。ただその彼の弟子達が説かなかっただけのことである。

 
私が「男の役割と女の役割」について書こうと思ったのは、単にその各々の役割を説こうというだけではなく、釈尊もキリストも同じ正法神理を説いていられるのであるということを知ってもらうためでもある。
神理は一つである神理が二つだとしたらもはやそれは神理ではない。

 私はこのことを書きながら思うことは ・・・
 あの思春期に「性」ということについて、「恋愛と結婚」について、血の浸むような悩みを持って教会へ行き、聖書を読み、またいろいろな坊さんお話を聞いたのも、結局は今になって「釈尊・キリストは説かれたことは同じ一つの神理であった」ということを知るための準備であったということをつくづくと思わされるのである。

 この頃、栄養がよくなったために、小学校五年生の女の子が初潮を見るという。ある若いお母さんから聞いたことであるが、五年生になると生理の教育があり、どうして子供が生まれるかを教えられるという。だから今の子供は昔の子供と違うというのである。ある日、兄の男の子供と一緒に風呂に入れたら、その男の子の一物をしげしげと眺めながら「あんたのはりっぱね」とその女の子が言ったというのである。それでその若い母親はびっくりしてそれ以来、男の子とも、父親とも一緒に風呂に入れるということはしないようにしたと言うことであった。

 まだ一人前に知性も理性も持たない子供に、教えればいいからということで唯単に生理的にのみ教えるから、それに興味を持って不純異性交遊に走る中学生達が出てくるのである。そうした事件を起こしている中学生達は恐らくそういう事がいけないことだという道徳的判断は全くなく、そうすることがなぜいけないのかという反省などをするということも全くないのではないかと思う。

 だから教育というものは、子供の精神と肉体の発達のバランスを考えて、教えなければならない。また教えてはならないことと時があるということも知らなければならないのである。

 
男女夫婦生活の秩序ということを教えられずに、単に生理的にのみ機械的にのみ性行為の結果、子供が生まれることを教えられた子供達が、男女の秩序を全く考えずに乱交をしても、それに対しては全く罪の意識を持たないのは当然である。だから「人は、教育によってのみ人となり得る」ということが言えるのである。

子供に性教育をする場合は、

 1.宇宙創造の原理、天地陰陽の理(ことわり)
 2.男の役割と女の役割
 3.結婚の意義、夫婦生活の秩序
 4.子供の誕生は神の計画と天上界の計画による

 ということを教え、その神理と秩序に反した時にそれを「悪」「不道徳」といい、その責任を負わなければならないという事を教えるべきである。

 このような点において、テレビのメロドラマの害毒もまた大だと言わなければならない。だから、子供の健全な生育を願う親達はテレビのメロドラマは見てはならないし、メロドラマを放送するスポンサーの販売する商品は買わないという良識を示すべきである。商品は買って儲けさせて、その上に子供の精神的な発達を妨害されて、それでもなお喜んでいるという親はよほど頭がどうかしているのではないかと思わざるを得ない。

 前にも書いて置いたが、ユダヤ教徒は小さな男の子供に「割礼」の儀式を施して包皮を切り取る。男の子供は小便をするたびに自分のものを見、手に触れて、「これは神さまから授けられたものである。正しい関係においてのみ行使すべきものである」と親から教えられたことを何時も思い出すように躾けられてあるのである。これはユダヤ民族が神の選民であることを自覚し、神の子たるに相応しい秩序ある生活を営むために考え出した何千年来のユダヤ民族の智慧なのである。

 中・高校生の不純異性交遊がもっと多くなり、男女の性の秩序がもっと乱れて来るようになると、そのうちに日本でも男の子供に割礼を施したらどうだろうかという意見が出されるようになって来るかもしれない。

 私が「男の役割と女の役割」を書くことにしたのは、今の日本の現状を見て、何とかこれを修正しなければいけないと思ったからでもある。


 
新年号に、女が生まれつきなぜ長い髪の毛を持つようになったのか、ということについてキリストがいわれたことは、女の子が小学校一年生になったら教えられることである。

「○○ちゃん、入学おめでとう。あなた誰と一緒に座ることになったの。同じクラスに幼稚園で一緒だった男の子がいる?ところで、男の子は髪をのばしているといっても、女の子よりは短いでしょう。大人になると、お父さんの髪の毛は、お母さんの髪の毛よりもうんと短いでしょう。どうして男の人は髪の毛が短くて、女の人は長いのでしょうね。日本人だけでなくて、アメリカもフランスも、中国も、世界中の人達がみんなそうよ。あなたそのことをふしぎだとおもわない?」
そう話しかけて、
「それはね、神さまが人間を男と女とにつくられたの。そうして男の役割と女の役割が決められたの。その時、神さまが、「男の頭は神なり、女の頭は男なり・・・・・・と教えて下さったの。そのことの印として女は大昔から長い髪を大事にするようになったの。だから、おうちでも、お母さんは「お父さん、お父さん」とお父さんを大事にしているでしょう。あなたが学校へ行けるのも、みんなああして、お父さんが毎日元気で会社で働いて下さるお陰よ。だから、お母さんはいつもお父さんに感謝しているの」
そう教えればいいのである。


「だから、あなたもお父さんに感謝してね」とか「しましょうね」ということは絶対に言わないことである。そこは子ども自身に考えさせないといけないのである。母親が、子供が考えなければならない所まで先に言ってしまうから、頭の回転のきかない子供に育ってしまうのである。こうして女の子は自然に、女のあり方、妻のあり方、母としてのあり方を勉強させられ、躾られて行くのである。
(聖書では、男の頭はキリストなり、キリストの頭は神なり、といっているが、これはキリストの弟子達がキリストを神の一人子であるとして言った事であって「男の頭はキリストなり」ということは必要ないのである。キリストも我々と同じ人であって、ただ我々に比べてより深く神の心を知っていられる光の大指導霊であるという方であって、神の子であるという霊の本質においてはキリストも我々も平等である。)




 2.釈尊は男女夫婦のあり方をこう説かれた

 さて、釈尊はどのように説かれたか。中村元著「原始仏教、その思想と生活」の中から書いてみよう。とかく仏教学者の文は難しく判りにくい点が多いので判り易く解説したい。

 「原始仏教、その思想と生活 ・・・ 性の倫理と結婚生活」 中村元著
原始仏教では出家した者に対しては、異性との交渉は全て断つように規定したが、在家の人々に対しては正しい性の倫理が説かれた。

 
「知者は淫行を回避せよ。誰も赤熱した炭火の坑(あな・土中の穴の意)の中に入って行く者はなかろう。人々はそこを避ける。それと同じように不倫な性行為をするな。正しく魂の修行をしようとして出家した者が、その不倫な男女関係を避けることが出来なければ在家となって結婚をせよ。結婚した者の心得るべきことは他人の妻を犯してはならないことである」

 この釈尊の考えは、キリストが未亡人に対して「
性生活に対する執着があるならば、むしろ再婚をして心を安らかにすることである」と説かれたことと同じである。正法即ち正しい信仰の道は、心を安らかにすることなのであるから、表面上、夫に操を立てて貞節を尽くしているように見えていても、心の中であれこれと性のことが煩悩となって心を乱しているようであったらそれはいけないのである。それよりは再婚をしてそのことについて思い煩うことがないようにして生きて行くことが大事であると教えていられる。さらに、先夫との間に子供があって再婚する場合は、自分が性について悩まなくなった代償として子供のことで悩むことになるのはやむをえない事であると言っていられる。

 だからキリストはいっていられるのである。

 「されど、わが心にては、夫を亡くした妻は、夫を守るべし。
      されば汝の子は清く直(なお・真っ直ぐ、素直の意)からん」
と。

 私達は周囲に、夫を亡くした後、きれいに身を守り、夫を立てて、苦労した末に子供達がみな素晴らしくなって、安心して老後を送るようになった人も見ているし、再婚して経済的には安定していても子供のために泣いているという人をも見ている。しかしまた、先夫や先妻の子供も、また再婚した人との間に生まれた子供も、それぞれ立派に育てていられる人もまた知っている。そういう人はまたそれなりの努力をしていられるわけである。

 釈尊もキリストも、人間のあり方の全てを知られて教えを説いていられるから、私は仏典を読み聖書を読むとその愛の心の深さに泣かされるのである。

 「貞婦は二夫に見(まみ)えず」という儒教の道徳に縛られて表面上は夫に操を立てているように世間体を繕いながら、陰に隠れて浮気をしている女の人を見ているとかわいそうで気の毒でしようがない。道徳観の犠牲、これまでの日本の習俗の犠牲になって心を苦しめているのである。そういう人にはキリストの言葉を、釈尊の言葉を教えてあげて再婚をすすめた方がよい。

 高橋信次先生が
「道徳では人は救えない」といわれたのはもっともである。

 夫に先立たれた女が再婚するのを軽蔑する風習がこれまであったのは、日本が儒教の道徳観を中心してきたからである。心を安らかにしてこの人生を生きて行くために再婚する人があったら、我々はその人を祝福すべきであるし、夫を守って女一人で強く生きて行こうという人があったら、尚のことその人を祝福し協力できる立場にあって、助けを求められたら喜んで協力してあげるべきである。

 再婚する女に子供があり、その子供が大きかったら子供を納得させるべきであり、子供が小さくて話してもわからなかったら、その子供が大きくなってから充分に話をすべきである。夫たる者が妻を亡くして後妻をもらう場合でも、妻が夫を亡くして再婚する場合でも、子供は親に純潔であってほしいと願って反対する場合がある。その子供を無視し気付かずに再婚をすると、子供達は自分の父、また母は不貞を働いた、いやらしい、不潔だという見方をするのである。年頃の子供がいて再婚する場合は、よくこの事に気を付けて充分に子供と話し合って再婚の必要性を認めてもらうということをしないと、再婚したとたんに子供が親に反抗的な態度に出たりするものである。
だから
キリストは再婚をする場合でも「主にありてせよ」と言っていられる。主にありてするということは、真理正法に則ってせよということで、この人生は魂の修行のためにあるのであり、そのために夫と妻とは一体となって協力すべきであり、単に性の満足のためにだけ、すべきではないということである。


 私は恋染めし頃、自分の全てを彼女に捧げたいと思った。彼女は私にとっては理想の女性であった。自分はその理想の女性にふさわしい理想の男性でありたいと願いそのための努力をした。そうして彼女に、この世界の他のどの男性と結婚するよりも「あなたと結婚した方が幸せです」と思って喜んでもらいたいと思った。彼女との間で性的な関係を持つことは彼女の魂の純粋さを汚すものだと考えた。清浄な神聖な彼女にふさわしい男性でありたいと私は願った。そうは思っても性の疼きを感じない訳にはゆかなかった。霊と肉との闘いに悩んだ。このような心理的な体験を得ることによって愛するものは一体となり、そこに理想と現実との一致を見出してゆくのである。夫婦となることによって人はみな、そこに理想と現実、霊と肉との一致を見出して心を安らかにして行かなければならないのである。それが神が定められた人の道なのである。
 しかし、そう思いながらもなお心で苦しまざるを得なかったのは、お寺でも教会でも「性は罪悪だ、煩悩だ」と教えていたからそれを信じていた私は、愛する者が一体となり夫婦となることは自然であり素晴らしいことであると思いながら、一方では夫婦となって罪を犯したくはないという心があって霊と肉との不一致に悩んだ。

 仏教もキリスト教も、実に永い間間違った事を説いてきたものである。正式の夫婦の間における性生活すらも罪悪だというのであったら、釈尊やキリストが夫婦生活の在り方について説くようなことはされなかったはずである。男と女は絶対に結婚してはならないと説かれたはずである。しかし、夫婦の在り方、愛する者の在り方について説いていられる。ということは
愛する者の間における性生活は神聖で正しいものだと考えていられた証拠である。




 3.釈尊は恋愛の純粋性について説かれた


 
「愛する者がだれであろうと、例え賎民の子であろうとも、すべての人は平等である。愛に差別なし」

 
如何なる階級に属する人でも、愛が純粋であればそれは尊ばなければならないと言って結婚生活を承認していられる。そうして夫婦以外の男女関係はいけないと言っていられる。

 
「己が妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる。それは破滅に至る道である」
また

 
「女に溺れ、酒にひたり、賭博にふけり、得たものを得るたびに失う人がある。これは破滅への門である」
と説いていられる。
また

 
「盛年を過ぎた男が、盛り上がった乳房のある若い女を誘(ひ)き入れて、彼女への嫉妬の思いで夜も眠られぬ。これも破滅への門である」と。


 この言葉は年甲斐もない老年の男が、若い女を求めてさまよう愚かさを警告していられるのである。台湾、フィリピン、韓国などに国際的な××ツアーに参加する男たちに聞かせたい言葉である。
釈尊は、人間生活の在り方のすべてを知っていられたのである。大乗仏典に現わされている釈尊は、人間世界を全く超越した悟り澄ました礼拝の対象のみの釈尊であって人間味は全く感じられない。しかし、多くの人が求めているのは人間味豊かな釈尊であろう。

 ヴエーダ聖典の抒情詩には「妻子は自分の身体である」と説かれている。インドには古来そのような考え方があった。それは正しいのであるから釈尊は「妻は最上の友である」と説かれている。

 
宗教的に「愛」ということを心理学的には「相手に対する全面帰投」という。全面帰投とは前に書いたように愛する人に自分のすべてを投げ出したいという純粋な思いである。

 真に愛する者はただ相手に自分を捧げたいとのみ思うものであって、相手を自分に奪う、相手を自分に奉仕させたいとは絶対に思わないものである。真に愛する者は、愛する人の喜びのためにはどんなつらいと思われることであっても、つらいと思わずに愛する人を喜ばせようとするものである。

 「夫を独占したい」とか「夫を奉仕させたい」と言っている若い妻達があることを聞いたが、それは単なる功利主義、自己中心主義であって愛でもなんでもない。現在ほど「愛」と言う言葉が混乱している時代はないのではないのか。大恋愛の末、結婚した人達が簡単に別れて行くのは、それは真の恋愛ではなかったのである。
今、若い人達に強く教えなければならないことは、「愛とは相手に対する全面帰投である」ということである。子を愛する親は、子供の喜びのためには何の苦しみもいとわない。親を愛する子供は、親の喜びのためにはどんな苦労でも忍ぶものである。それと同じように夫を愛する妻は、夫のためにはどんな苦労も惜しまないし、妻を愛する夫は、妻の喜びのためにはどんな苦労もするものである。

 私が事業に失敗して宗教家として報いを求めない伝道活動に入ろうとした時、私を勇気づけたのは妻の「あなたが乞食されるなら、私も子供の手を引いて一緒に乞食します」と言う言葉であった。生長の家の本部講師になって初めてボーナスをもらった時、そのボーナスの半分を投げ出して私は妻のオーバーを買った。そうして子供の物を買った。「妻子は最上の友である」と言う釈尊の言葉を私はそのまま実践していたのであった。
夫が苦境に立った時、夫と苦しみを共にしようとしない妻は夫を愛していないのである。夫を失望させている妻が幸福になることは絶対にない。夫婦は愛の故に一体となるべきであって単に経済的な安定のためにだけ一体となるべきではない。

 釈尊はまた次のように説いていられる。
「もしも妻が貞節であって、他人の威しに屈することなく、夫の願うことに従順で愛(いと)しくあるならば、良いことも、悪いことも、妻を誉めることも、また妻に反省を求めることも、どんな秘密なことでも妻に打ち明けることである」と。

 ということは、夫婦は良く話し合うべきであってお互いに秘密を持ってはならない。妻は夫から何でも打ち明けられるような信頼される妻でなければならないということである。もし、夫は私に何も話してくれないと、夫を責めている妻があったとしたら、私は夫から何でも打ち明けられる程信頼されていないのではないか、ということを反省してみなければいけないのである。しかし、妻を愛し信頼している夫が、すべてを妻に打ち明けない場合がある。それは成功すると思っていたことが思わぬ失敗となり、その失敗の事実をそのまま妻に話をすればどんなに妻が苦しむであろうかと思うと、妻を愛するが故に事実を話さず、その苦しみは自分一人の胸にしまって自分一人が苦しめばいいと思う場合である。そういう場合は賢明な妻は夫の心に感謝し、なぜ夫が自分に話してくれないのかと夫を責めないことである。

 以上のように釈尊は結婚生活の在り方も説かれた。性生活は罪悪だから、結婚しても性生活はしてはならないとはどこにも説いていられない。

 これまで正式な夫婦の性生活まで煩悩であると説いてきた日本の坊さん達は、釈尊の教えを間違って説いて来たことを反省しなければならないのである。

また釈尊は、夫の役割と妻の役割が違うことも説いていられる。




 4.釈尊の教えから ・・・ 1


 これまで日本の仏教は、大乗仏教であって女は救われ難いものであるという取扱いしかして来なかった私達が子供の頃、お寺に行って話を聞いていた時でも、「女はおなご・・・・・・と言うてな、業が深いもんじゃ」という説教をしていられたし、比叡山・高野山が女人禁制であったことから、一般的に女は業が深いものとして説かれて、女はこのように生きなければならぬという説法は全くしていなかった。
 人間は、男と女から成り立っているのであるのに、インドから中国を経て日本にまで仏教が伝わって来ている間に、男が救われる道は説いてあるのに、女はかくしなければならないというような女の道が説かれてないことに疑問を持つ人はなかったのであろうかと不思議に思わざるを得ない。現在でも坊さん達の説法は、人間一般としては説いても、男と女の役割について説くことはしなかった。大乗仏教のそのような説き方が間違いであることは、原始経典である阿含経こそが釈尊の最も根本の、一番最初の教えであるということに気づくまでは誰も気づかなかったのである。阿含経に最も根本的な教えが書かれてあるということが仏教学者の間で意見が一致し認められた最後の年が昭和五十年なのである。

 明治維新以前の日本人は、お釈迦さまとは、もう一切人間味を超越した、人間世界と関わりのない宇宙の本仏として教えられて来たのである。生々しいドロドロした人間的な悩みを自ら悩みながら悟られた方だとは誰も思っていなかったのである。しかし、実際は我々普通の人間が悩むような悩みも体験されたのであるということがはっきりなったのは極最近のことなのである。
 そういう時期に高橋信次先生が出て来られて「人間釈迦」を書かれたから読む人が多く出て来たのであるが、もしこの出版が終戦前であったとしたら、恐らく、この本は釈迦を汚しているといって誰も読む人はなかったであろうと思う。私はこのことを思う時、つくづくといい時期に生まれ合わせたと思うのである。

 以上のような次第であるから、私がここに書くことは「阿含経」と「人間釈迦」の中からの要約である。

 お釈迦さまは結婚もし、子供もありまた、自分を取巻く女官達が多くいたのであるから、性の経験もあるし、自分を取巻く女達の嫉妬の争いも充分に見、聞きしていられる訳である。また、出家されてからでも、そうしたことについて在家の人々から指導を求められたことも多かったであろうことを考えない訳にゆかない。
 キリストが「死別した女が再婚する方がいいのは、性の問題を処理し切れなくなった時だ」と言っていられるが、亡き夫に誠を捧げて独りで生きるということは、性に関係なく生きるということでる。性に関係なく生きるということは釈迦教団の出家した人達もそうである。お釈迦さまが出家した弟子達に説いていられることと、キリストが説かれたことは同じである。

「智者は淫行を回避せよ。誰も赤熱した炭火の坑の中に入って行く者はなかろう。人々はそこを避ける。それと同じように出家修行者は女を裂けよ。もし、そうすることが出来ないならば在家になって結婚し、わが妻を求めよ。他人の妻を犯してはならない。」

 古代エジプトの時代からこの方、いつの時代、
どこの国においても姦通が罪とされて来たのは何故であるか。

 妻は夫の所有物であって、その妻を盗むということは物を盗むのと同じだという考え方をしていた時代があるがそれは正しくない。
夫と妻とは完全一体となって神の子として霊を向上して行かなければならないし、そのことを約束して夫婦となったのである。その愛の結びつきが、男が他の妻に心を移し、また妻が他の男に心を移すことは、愛の一体性が破壊され心に大きな悩みと曇りをつくり、人間がこの世に生まれたその使命と目的に反することになるからである。

 
「愛とは全面的な自己帰投である」と言う言葉がある。「惜しみなく愛は奪う」という言葉は、その全面的な自己帰投を裏返しに言った言葉である。全面的な自己帰投とは「愛する人に自分の全てを捧げ、愛する人が欲する通りにしたい。自分のことはなんにも考えない、自分の身も心も、すべて愛する人に捧げて何の悔いもない」という状態である。だから愛する人に捧げてお互いに相手が自分の欲する通りになってくれることを求めるのである。妻を愛する夫は、妻が自分の欲する通りになってくれることを求める。その時、妻は、心に何の抵抗も持たずに夫の言いなりになった時に初めて夫は「妻の愛を得た」と心が全面的に満足するのである。

 そういう時に妻が全面的な自己帰投せずに、自我意識が強く自己主張ばかりをして夫のいいなりにならない時、夫は「妻は自分を愛していない」と感じて心さびしく、悲しくなるのである。妻が全面的な自己帰投をし,夫が妻の愛を確認することが出来るとまた、夫も妻も全面的な自己帰投をして妻のいいなりになるのである。だからして、夫が自分の言うことを聞いてくれないと嘆いている妻は、その前に自分が夫に全面帰投していないのではないか、ということを反省しなければならないのである。

 
その全面帰投は双方から行わなければならないのであって、夫が妻にだけ全面帰投を要求するのも片寄っているし、夫が夫としての主体性をなくし全ての実権を妻が握り、夫だけが妻に全面帰投をするのも間違いである。

 終戦前は、夫が一方的に妻に全面帰投を要求することが多かった(封建性)し、戦後は女性上位で妻が夫に全面帰投を要求することが多いようである。海外への新婚旅行の添乗員をしている人が言っていられたが、最近は、十組の内七組までが女上位で男が優しいということであった。女上位で女を大事にし、女の言いなりになってくれる男は女にとって好ましいことであるかも分からないが、そういう男は、若いうちにこそ好ましいと思うかもわからないが、男としてたいした仕事も出来ず、中年以上になって女にべたべたして主体性を持たない男を女は好ましいと思うであろうか、私の言いなりになってくれる優しい夫を持ったと喜んでいる若い妻達が、今のその喜びが一生続くものであるかどうかは、後少なくとも三十年の評価を待たなければならないと思うのである。可もなく不可もなく、ただ食って生きて死ねばそれでいいと思っている人はそれでいいと思っている人はそれでいいともいえるが、しかし、人生のある時期に「自分に人生はこれで良かったのか?」という自分の生き方に対する疑問が怒って来たとしたらその人生は失敗だといえる。色々失敗もし苦労もあったが、しかし自分の人生はやはり生き甲斐があったといえるような生の充実感のある人生であってこそ、その生活は霊の向上のための生活、即ち人生であったといえるのである。

 そういう人生を送るために夫婦という者はお互いに良きパートナーとならなければいけないので、一方が一方の犠牲になったり、自我意識を助長させるような生活であってはいけないのである。




 5.霊の段階の高い人はより多く奉仕しなければならない

 夫婦生活や集団生活その他、人間関係において我々が心得て置かなければならないことは、
霊の段階の高い者は低い者に比して多く働き多く奉仕しなければならないということである。

 あなた方は小学校か中学校があるいは高等学校等で、或いは集団で、何か協同で仕事をしたという時に「ああいつも自分は損をする、あの人達はいつも遊んでいるのに何で自分だけが何時もこんなに働かなければならないのだろうか」と思う人があったとしたらあなたは喜びなさい。それはあなたが高級霊である証拠である。そう思って「よし、この次は自分も働かないぞ、いつも自分は損をする」と思うことはあっても、いざ又何か仕事をするとなると、そう思っているのに「また、あの人は遊んでいる」と思ってもあなたは遊んでいることは出来ないのである。また一生懸命仕事せずにはいられないのである。夫婦喧嘩をして、自分は悪くないのにいつも先に謝るのは自分だ、と思う人も霊の段階の高い人である。

 
高橋信次先生が正しさの基準は心にある、といっていられた。霊の段階の高いという人は低い人よりも善悪に対する判断が厳しいし、心の中に何時までもこだわりを持ってはいられないのである。そうして赦すということの大事さを知っている。だから、もういい、いつまでもこんなことにこだわってはいられないと思うのである。
 また、霊の段階が高いということは、その人は人よりも多く輪廻転生の経験を積んで智慧が豊かであるのであるから、色々な事に良く気が付くのである。低い段階の人は過去の経験が少ないからそれだけ物の道理も分からず自己本位で気が付かないのである。低い段階の人が気が付かないようなことでも高い段階の人は良く気が付く。低い段階の人は別に怠けている訳ではなくそれでいいと思っているが、高い段階の人から見るとそれは欠点として悪として見えるのである。夫婦というものは、必ず一方が高くて一方が低いものである。低い段階の者は高い段階の者に学んで自分も早くそのようになるように努力することによって霊は向上するのであるし、高い段階の者は低い段階の欠点を責めることなくそれを赦して、その者が早く成長するように手を貸してやらなければいけないのである。


 男女平等と言う言葉の魔術に引っ掛かって霊の次元の低いものが、自分よりも高い段階の者を自分の次元まで引きずり降ろそうとするような生活態度を取ると夫婦喧嘩に発展する場合が多い。
 ともかく霊の段階の高い者は、より多く赦し、より多く人のために働き、食べるものも少ない。いざとなると仕事をしないで遊んでいることは出来ない。人よりも多く仕事をしてしまうという人は、自分の心を低い段階の人に合わせないように、そうある自分を自分で喜びとして益々霊の向上に励むことである。霊の段階の高い者は心に安らかさの基準を多く持っているからいつまでも腹を立てていることが出来ない。悪い傾向性を持つものに対しては執念深くないが、善なる傾向性のものについてはひた向きにそれを求める。だからある面においては、非常に頑固に我が強く見える。

 カラオケを歌って、隠し芸をやって、みんな酒を飲んで大騒ぎしているのに、どうしてもその中にとけ込めない。これでは皆と調和が取れないから皆と仲良くするためには、皆の中にとけ込まないといけないと思ってたまに歌ったり踊ったりして見ても、そうした後に何か自分を偽っているような寒々とした空しさが残って仕方がない、という人があったらその人は霊の向上への傾向性の強い人であるから、皆の中にとけ込めないということで悩む必要はない。普通に付き合っていればいい。霊の段階の高い人は孤独になり勝ちであり、低い段階の人はよく群れたがる。孤独に耐える厳しさを越えて大きな愛を学んで行かなければならないのである。夫婦生活でも以上のようなことを心得ていれば上手く調和が出来てゆく。




 
6.性と結婚

 お釈迦さまは出家しないと救われないと言われた訳ではない。在家のままで救われる道も説いていられる。カースト制度の厳しい社会制度の中で、愛は純粋でなければならないことを説いていられる。


「愛する者の愛する人は誰であろうとも、たとえ奴隷の女であろうとも、すべての人は平等である。
 愛に差別はない」


そうして、夫婦以外の男女関係は否認される。

「己が妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、これは破滅への門である」

「女に溺れ、酒にひたり、賭博にふけり、得るにしたがって得たものをその度に失う人がいる。
 これは破滅への門である」


 宗教的立場においては、相手の人間性(神の子として)の尊厳さを傷つけ、相手の心を傷つけ悩ませるものは正しくないとするのである。だから我々の行為は、相手の人間性を高め、相手の心に安らぎを与えるようなものでなければならない訳である。そういうことでこのようなことをお釈迦さまは否認されたのである。私はお釈迦さまの夫婦の倫理についての教えが、キリストの教えと全く同じであることに驚く。


「何ものが人々のすみかであるか、この世で最上の友は誰ぞ」
「子らは人々のすみかである。妻は最上の友である」


 インドには昔から「妻は友である」という教えがあった。ヴェーダの叙事詩の中には「妻子は自分の身体である」と説かれている。
 キリストが「夫は己自らの身を支配する権利を持たず、その権利を持つ者は妻なり」「かくの如く、妻もまた己自らの身を支配する権利を持たず、その権利を持つ者は夫なり」と説かれたことと同じである。

 我々は、やはり自分の家に帰ると、ほっとして心が安らぐ。「すみか」というものは、我々の身も心も安らかにさせる。そのように、妻子というものはまさしく我々の心を安らかにし休ませてくれる「すみか」である。夫が妻子を愛することは、夫が自分の身体を自分で大事にするのと同じようでなければならないし、また妻が夫を愛する事もまた、そのようでなければならないというのである。

 この教えが教えるものは、夫が自分の傍に来た時に、夫の身と心を休ませ安らぎを与える事が出来ないような妻は落第であるということである。妻が夫の心を休ませ安らぎを与えないとしたら、夫はどこかにそれを求めたくなるであろう。これまで多くの宗教団体は、夫が浮気をするのは妻が悪いからだ、と夫の浮気を正当化してきた。それは間違いである。たとえ妻がそうであったとしても、妻がそうであることを口実にして夫は浮気をしてはならないのである。そのような妻を赦し、良く妻と話し合って調和してゆくようにしなければならないのである。妻がそうであることを口実にして自分の浮気を正当化しようとしてみても、そういう関係で心が悩みをつくり苦しむのはその夫自身であり、その悩み苦しみをなくするのも夫であるからである。赦さなければならない立場に多く立たされる人は、それだけ厳しくこの人生を生きなければならない霊の段階の高い人である。

 夫婦間における愛の純粋さについてこう教えていられる。

 
「もしも妻が貞節であって、他人の威に屈せず、夫の欲することに従順で愛ほしくあるならば、良いことも悪いことも、全て秘密の事柄を妻に打ち明けてよい」

 我々は、全面的にその人を信頼するならば、どんな事でもその人に打ち明けて相談したいと思うものである。もし夫が、自分には何にも相談してくれないと嘆いている妻があったとしたら、その妻は何故打ち明けてくれないのか、自分自身のあり方をまず反省しなければいけない訳である。

キリストが「不信仰なる夫(妻)は、信仰ある妻(夫)によって、浄くなりたればなり」と教えていられる事と、お釈迦さまが教えていられる事も同じである。

 この様に見て来ると、キリストが説かれた真理もお釈迦さまが説かれた真理も同じであると言える。

 
常識的に考えてみても、悪い人が立派な人のマネをして立派になってゆくのが自然であり当然であるし、また、人間は、不安な生活よりも安定した、心の安らかな生活、人間関係を求めるのも自然であり当然である。
 真理に則った生活というものは、極めて自然な当然な生活なのであって、常識的な誰にも納得できるような生活なのである。
だからもしその人の信仰生活が非常識的で納得出来ないものであったとしたら、そういう信仰生活は正しくないのであることを考えなればならない。




 7.釈尊の教えから ・・・ 2


 ある時、阿難が釈尊に問うた。
 「なぜ婦人は公会のうちに坐さないのですか。なぜに職業に従事しないのですか。
  職業により生計を立てないのですか」
 釈尊は答えられた。
 「阿難よ、夫人は怒り易い、夫人は嫉妬深い、婦人は物惜しみする。夫人は愚かである。
 これこそ、婦人が公会の内に坐せず、職業に従事せず、職業により生計を立てない理由である」と

 釈尊のこの女性に対する考え方は、キリストが「女は男の上に立って法を説いてはならぬ」と言われた事と同じである。この言葉だけを以て直ちにこれは女性蔑視であると言ってはならない。

 
んなに正しいことでも、そのことを直ちに実行しえない場合は、そこに至る過程として必要な方便を使い、現実生活にマッチするようなあり方をしなければならない。理想が実現出来ないから駄目だと反対行動を執って混乱を起こしてしまったのでは安心して生活できなくなる。また個人的には不幸になる。

 終戦後、労働組合運動が起こった時、「人間は平等だ、社長も労働者も平等だ」という悪平等論を全ての新聞が書いた。これと同じ発想で「先生も生徒も平等だ、先生は先生だといって高くとまっていてはいけない、先生と生徒は友達でないといけない」と書き「親も、親だと思ってはいけない、親と子は友達でないといけない」と盛んに書いた。日教組の先生達は自分でそう言った。最近の新聞の社説解説を見られるとよい。この頃はどの新聞も盛んに「中・高校生の校内暴力は、先生が先生としての権威を持たず、家庭で父親が父親としての権威を持っていないからである。父親よ、もっとしっかりしろ」と書いている。

 世の中には当てにならないものが一杯あるが、その中に新聞の社説解説がある。終戦後からの各新聞社の社説解説を通読して見られると分かられると思う。如何にその場当たりの、左翼的思想傾向を持つ読者層に迎合した社説が多いか、だから私は新聞は見ることは見るが、社説は一切信じないことにしている。新聞などのマスコミに引きずり廻され「先生も生徒も平等だ、親と子は友達だ」と言って来た結果は今のように、教育現場は全く混乱して先生は手をつけられず、警察力を導入しているではないか。ストに対して警察官が出動した時、これまではいつも日教組は「政府は警察力を導入して鎮圧する」と政府のやり方を攻撃してきた。その日教組が、今度は学校に警察力を導入しているのである。私は、日本の教育を正常化するためには、当分、どんなに学校から要請があっても、警察官は絶対に学校に介入しないで、先生達自身の力で解決するように仕向けることだと思っている。終戦後から一貫して日本の警察行政に反対して来た日教組が、今になって警察力に頼らなければ学校運営が出来ないと言って泣きつくのも不見識であるし、要請されたからと言ってすぐ出動する警察側もまた余りに考えが浅いし甘い。「日教組は、我々警察側に対して、これまでどう言って来たか反省しなさい」と突き放せばいいのである。

 日本の経済力が世界一になって来たのは、毎年ストはあっても、経営者と労働者側の秩序が保たれて、社長になった人はそれなりに、また、働く側はそれなりに、きちんと役割を守って精一杯努力して来たからである。人間は平等だからと言って、社長としての能力のない人が社長になったら、一ぺんで会社は潰れてしまう。能力のある人は、その能力を生かして、その能力を充分に発揮できる役割を持って働くのが正しいし、経営の能力のない人はない人で、その能力に相応しい役割を与えて仕事をさせるのが正しいのである。
悪平等は真理ではない。男と女は決して平等ではない。役割は違うが、しかし人間としては平等である。

 釈尊は決して女性を蔑視されることはなかった。

 ある時、コーサラ国王パセナディー王の妃マッリカーが王女を生んだが、王は王女が生まれたことを喜ばなかった。その時、釈尊は次のように教えられた。

 
「人々の王よ、婦人といえども、ある人々実には男子よりも優れている。知恵あり、戒めを保ち、姑を敬い、夫  に忠実である。かの女の生んだ子は、英雄となり、地上の主となる。かくのごとき良き妻の子は、国家をも教  え導くのである」

 釈尊は夫人の持つ素晴らしい才能を尊び、偉大なる聖者も英雄も、全て女から生まれるのであると、尊敬していられる。


 そうして、夫は次の五つの在り方で妻に奉仕すべきであると教えていられる。

 一、尊敬する 二、軽蔑しない 三、道から外れない 四、権威を与える 五、装飾品を提供する


 一、尊敬する
 神々に対すると同じ尊敬の念を以て妻を尊敬せよ。封建的な道徳的な男女観の中からは「妻を神と同じように尊敬せよ」という考え方は出て来ない。男女という肉体的な外見の相異はあっても、人間は皆神の子の霊性の本質は同じであることがわかると、妻をも神と同じように尊敬しなければならないことがわかってくる。平塚雷鳥さんが、「男は女の性の前に跪かなければならない」と言われたのも、この霊性の本質から言われた言葉である。平塚さんは「私はインドのお釈迦さまの話を聞いた比丘尼であったのかも知れない」と書いていられるが、それは事実であろう。その人の心の奥底から自然に起こってくる思いは、その人が過去世に体験したものが出て来るのである。

 私が青春時代、常に思い続けてきた言葉の中に、
 「処女の純潔に逢うて、誰か浄化せざる者、あらざらむや」という言葉がある。その頃、私にとって女性は全て聖女であった。今もその思いは変わらない。世界中の全ての女性が聖女になれば男性社会は全て調和され平和になり犯罪もなくなるであろうという思いが今でもある。誠にも女性は尊敬すべきである。正しく女性は、男性からの尊敬に値するような女性にならなければいけないのである。


 二、軽蔑しない
 尊敬するということは直ちに同時に軽蔑しないということになるが、ここで釈尊が教えられたのは礼儀がなければならないということである。「女だから」といって女性の人格を無視して、手荒なことをしてはならないということである。女性の感情は、男の感情よりも繊細であるから(中には男性以上に図太い神経を持っている女性もいるが)傷つき易い女の感情を大事にして、言葉や行動に気をつけなければならないということである。


 三、道から外れない
 ここで意味されているものは、姦淫も含めて、男の心が、妻以外の女性に移ることを戒めていられるのである。愛は純粋で純潔でなければならない。愛と言う言葉によって男女の生活が乱れて来ているのが現状であるが、真の愛からは心の安らぎが得られるが、ニセモノの愛からは、同じ愛と言う言葉は使っていても心の安らぎは得られない。愛情が分裂していることは大きな苦しみであり悩みとなる。釈尊の時代は、男が妻以外の女性と歩き廻ることも悪徳とされていた。今でもインドではこのことは守られている。最近のように、女性が職場に進出して来ると、男女が一緒に歩かなければならない機会も増えて来るが、しかし「道から外れてはならない」という心の掟は大事なことである。


 四、権威を与える
 夫は社会的に家庭を外で活動するのであるから、家庭内のことはすべて妻に任せて夫は干渉しない。妻に自主性を持たせて権威を与えるということである。
 男がいちいち家庭内のことまで細かく心を使っていたら、それだけ社会活動の力はそがれることになる。女性を尊敬している男性は決して台所に入らない。大きな仕事をしようとすればするほど男は家庭でも外でも勉強しなければならないことがある。私は妻を尊敬しているから、家庭内のことはすべて妻に任せている。私がもし、近頃のような男女悪平等を主張して、亭主に料理も洗濯もさせ、日曜の度にどこかうまいものを食べに、また旅行に連れて行ってとせがむような悪妻を持っていたとしたら、私はこうした原稿を書くことも出来ないし、正法の活動など全く出来ないことになる。勿論、どこかへ食べに連れて行くような金もない。新聞や雑誌に登場している、はねっ返りの翔んだ女性から見れば、私など全く封建的な落第亭主の標本ということになろう。私の原稿はほとんど直観に導かれて書いている。書いている時に次から次へと書くことが先に頭に浮かんでくる。そういう原稿を書いている時に、いちいち「あれを手伝って、これをして、お風呂沸かして、料理して」と言われたら、折角の直感が中断されてとても書けるものではない。私は妻を尊敬しているから妻の立場を尊重して、妻の自主性を尊重して妻に権威を与えているのである。妻を愛していると言いながら、妻の領分にまで立ち入って料理や洗濯をしたりしている夫は、実際は妻に権威を与えていないことに気づかなければならないのであるし、妻はまた、夫を愛していると言いながら、社会的に大きく貢献しなければならない夫のエネルギーを家庭でロスさせて夫の将来性をダメにしてはいないかということを考えなければいけない。この頃、男性料理教室やら、男性育児教室が盛んだということであるが、一生を平凡に生きることだけで満足だという男性はそういう勉強をしてもいいであろうが、何かを成し遂げたいという目的を持って生きようとする男性はそういう所に行くべきではないと私は思う。

 妻が病気で寝込んだ時とか、或いはどこか用事で出掛けて料理する者がいないという時に、男が自分で料理して食べ、また、妻にも食べさせるのは当然だし、妻がどうしても外に手の離せない用事があるという時に赤ん坊のオムツを替えてやるのはこれまた当然で、夫婦生活する以上、夫婦は協力してゆかなければならないが、最近は、限度を超えて家庭にのめり込む男子をいい亭主だと誉めるような風潮があるのは遺憾であると思っている。父親らしくないことが子供の家庭内暴力や、中学・高校生の校内暴力の原因となっているというのであるから、妻は夫をして、夫らしく又親らしくさせることが大事で、妻が夫をして夫らしく又親らしく振舞わせないで、夫に炊事や洗濯などさせていたら、親の言う事を聞かない子供に育てているということになる。


 五、装飾品を提供する
 インドから南アジア一帯の婦人達は、宝石貴金属等の装飾品をよく身につける。金が貯まると装飾品を増やし、金が必要になると少しずつ売るということをする。
 日本のように安定した国では装飾品を身に付けるという事は余りしなかったが、常に戦乱が続いて、自分を守ることは自分がして、たとえ何処へ行っても生活が出来るように、何時でも金になる物は身に付けて置くというのが生活の知恵であった。妻に装飾品をつけさせるということは、妻への愛情の表現であると同時に貯金することでもあった。高価な宝石や貴金属でなくても、愛情の表現として夫が何かを妻に贈ることは自然であろう。

 以上のように釈尊は夫達に対して妻を尊敬せよと教えていられるのである。


 ではなぜ釈尊は、阿難が「夫人はなぜ公会のうちに坐さないのですか・・・」と質問したのに対して、「婦人が公会のうちに坐せず、職業に従事せず、職業によって生計を立ててはならぬ」と言われたのであろうか。
 それは、夫人は怒り易く、嫉妬深く、物惜しみし、愚かで、知恵が足りないからであると言われたのである。ということは、その当時のインドの女性は、釈尊が心の内に願っていられたような女性の理想像とは程遠い愚かな状態にあったからである。

 パセナディー王に言われたように「夫人といえども、ある人々は男子よりも優れて知恵あり、良き妻が育てた子供は、国家をも導く」と夫人の中には素晴らしい女性があることを知っていられたが、平均的に全女性を眺めた場合、どちらかと言えば劣った愚かな女性が多かったからである。

 釈尊は「婦人は公の場に出たり、公の仕事をしてはならぬ」と言われたが、キリストもまた「女は男の上に立って法を説いてはならぬ」と説いていられる。

 これもまた、今から二千年前のあのイスラエル地方の多くの女性は、まだ無知な人が多かったからであろう。もし女性がもっと素晴らしい存在であったら釈尊もキリストもそのようには言われなかった筈である。
能力のない者が上の地位に就き、心の狭い者が広い見識を必要とする仕事に就くとしたら社会は混乱し没落するばかりである。だから、相応しい人が相応しい仕事をするということは大事なことなのである。

 夫に対しては以上のように教えていられるが、妻に対してはどう教えられたのであろうか




 8.妻のあり方

 妻は次の五つの在り方で夫を愛さなければならない。
 
 一、仕事をよく処理する 二、身内の人達をよく待遇する 三、道を踏み外してはならぬ

 四、集めた財産をよく守る 五、妻として、女として、為すべき事柄について巧みで勤勉である

 ここに教えてあることは、妻は妻の役割を果たさなければ良い妻とはいえないということである。


 一、仕事をよく処理する
 妻は家庭内の仕事を充分によく処理し、夫が外にあって安心して活動することが出来るようにすることである。それが夫を助ける道であるというのである。
 妻が不出来で妻らしいことは何にも出来ず、子供が生まれても母親らしいことは何にも出来ないとしたら、夫は安心して外で仕事は出来ない。夫が仕事が出来なくなれば当然収入も少なくなる。このような場合愚かな不出来な妻は、自分が夫の足を引っ張った為に収入が少なったとは考えないで、夫の働きが悪いから少ないのであると言って夫を罵倒し、こんな人と結婚するのではなかったと言うかも知れない。そこまで行けばもう離婚ということになるであろう。日本は、アメリカ、ソ連に次いで離婚率は世界第三位である。女は結婚する前に、女は結婚してどういう仕事をしなければならないかと勉強して結婚すべきであろう。


 二、身内をよく待遇する
 身内とは、夫と自分の親戚のことであり、良く待遇するということは一家の中心として、みなが不愉快な感情を抱いたり争ったりすることのないように良くまとめるということである。
 釈尊の時代はインドは母系家族であった。日本も、奈良時代までは母系家族であった。女が夫の家に嫁ぐようになったのは武家社会が台頭してからである。母系家族においては尚更女は一家の中心として大家族をまとめてゆかなければならない。現在の日本のように核家族になったとしても、女が、夫の家族に良くすることは大事なことである。全国を講演して歩くと、色々な人の話を聞くが、夫が自分の親戚の人には良くするが、妻の親には何にもしないという人があり、その反対に、妻が自分の親や親戚には良くするが、夫の方には何にもしないという人があり、これでは上手くゆかないのは当然である。それぞれの生活状態に相応しく良く待遇することは大事なことである。


 三、道を踏み外さない
 インドの女性は今でも貞淑である。夫を愛している貞淑な妻は、夫を神の如くみなして、夫の希望通りに行動し、夫の同意を得て家族一切の世話を引き受け、夫の両親、親戚、友人、兄弟姉妹、召使などに対して、それぞれに相応しい態度で応接し、庭には菜園を造り、芳香を発する木や花を植え、食事についても夫の好き嫌いや、何が体に良く、何が悪いかを良く心得、夫が帰宅する足音を聞いたらすぐ出て、自分でか、または召使に夫の足を洗わせるとか。夫が何か不始末をしでかした時、少し位嫌な顔をするのはいいが、徹底して悪く言い過ぎてはならない。口やかましい妻になってはならない。下品な言葉を口にしたり、ふくれっ面をしたり、独り言を喋ったり、外でお喋りをしたりしてはならない。
 夫の側に近づく時は、いい甘い匂いのする香油や香料を用いて夫の喜ぶ衣装を身に付けよ。妻たる者は、夫に献身し、何事も夫の利益になるように努めなければならない、というようなことは五千年前から今に至るまでインドでは教えられていることである。

 
「道を踏み外さない」ということは、「夫以外の他の男性のことを、心の中でさえも求めない」ということである。心の中で他の男性を求めることは肉体的には何の関係がなくても心の中では姦淫しているのである。思う事くらいは罪にならぬと多くの人は考えるが、人間の霊性の本質がわかると、心で思う事も罪になることがわかるのである。だからキリストも「汝ら心の中で姦淫してはならぬ」と教えられたのである。あなた方が心の中で姦淫の罪を犯さなくなったら、あなた方の運命は急激な好転をすることを私ははっきり言って置きたい。あなたの心が変わる時、世界が変わるのである。


 四、集めた財をよく守る
 私がインドに学ばなければならないものがあるとアニル教授に言ったのは、インドでは宗教と道徳が一体となって生きている面が沢山あるということもあった。
 竹、薪、革製品、鉄鍋、塩、油などは、一年中で一番値段が下がる時期を見て買い込んで置く、その外日用品も必要に応じて買い整えて貯蔵室にしまう。季節になったら、大根、馬鈴薯、蕪、胡瓜、茄子、玉葱、にんにくなどの種子を買って来て自分で植える。要は自分の財産の額や、夫に打ち明けられた秘密を他人に洩らしてはならない。食卓の残りのミルクは捨てずにバターを作る。油と砂糖は自家製にし、糸紡(つむ)ぎとはた織りは家庭内で行い、縄、紐、紐を作る木の皮などは常時備えて置く。くず米やもみ殻は無駄なく利用する。使用人の手当を払い、田畑の耕作や家畜の世話を監督し、一日の収支の帳尻を合わせ、着古した衣類は使用人に与へ、夫の友人には花、香油、香料など贈って歓迎する。夫の両親を敬い、決して逆らわず、穏やかな口調で口数少なく話しかけ、彼らの前では大声で笑わず、そのうえ、妻は虚栄に憂き身をやつしたり、自分の楽しみだけに没頭したりしてはならない。使用人に対しては寛大な態度を示し、休暇や祭りの日にはその労をねぎらってやり、何か物を与える時は、まず夫に断わらなければならない。

 以上は、ヴァーツヤーヤナ著「愛の格諺」という本に書かれていることであるが、ヴァーツヤーヤナという人は今から二千年位前に存在した人ではなかろうかいわれているが、はっきりした年代は不明で、どんなに新しいといっても千五百年以後の人ではないということははっきりしている。釈尊の教えが経典という形式にまとめられたのがやはり二千年前頃であることを考えると、ヴァーツヤーヤナが「愛の格諺」に書いてまとめたようなことは、釈尊は二千五百年前の方であるからその頃は口で言い伝えられていたに違いない。
 集めた財というのは、農耕・商業などをして集めた財であって、それを守るということが妻の為すべき事の務めの一つとして挙げられていることは、家庭の経済の管理は妻に任せられていたということで、夫は妻に経済を全て任せる程妻を信頼していたということであり、また妻は、夫の信頼に応えられるようでなければならないということである。


 五、妻として、女として、為すべき事柄について巧みで勤勉である
 このことについては前項でも書いたが、要は、妻は夫の収入の範囲内で上手くまかなってゆかなければならないということを教えられたのである。
 限られた夫の収入の範囲内でやってゆくということは、大変骨の折れる仕事であるかもしれないが、足りないからとサラ金に手を出して破滅してしまったという人の例はザラである。妻が夫の収入の範囲内でやってゆくということは、古代インドの時代であろうが今であろうが変わりないことである。ここでいわれた「巧み」とは「粥や食物をつくることなどにも巧みである」ということもある。同じ材料を使っても、作る人によって美味しかったり美味しくなかったりする。一番肝心なことは愛情を込めて作るということである。
 アメリカのスターデリーという人がある。この人は、極悪な脱獄犯人であったが、獄舎の中でキリストの姿を見て反省し、キリストの教えを忠実に生き伝道者になった人である。この人が言っている。「刑務所や集団給食をする所の料理がうまくないのは、愛がこもっていないからである。愛のない食事を咀嚼するのには鉄の胃袋を必要とする」と。愛情のない食事は見ただけで寒々としている。


 以上、書いたように、釈尊が結婚生活について説かれた夫の役割と妻の役割は至極当然のことを説いていられる訳で、別に奇異な事を説かれた訳ではない。

 この釈尊の教えは、原始仏教が伝えられた南伝仏教圏、ビルマ、タイなどでは最近まで生きていた。ビルマでは妻が財産を支配していた。夫婦の協力によって得た財産は共同財産であった。妻はみな貞淑で姦通による離婚は極めて稀であった。西洋思想が入って来てからインドでもビルマ辺りでも姦通が増えて来て、家庭内のことを放棄する女性が増えて来たというのであるが、しかしまだまだ原始仏教の教えは生きている。

 しかし、釈尊は矛盾といえば矛盾したことを説かれた訳である。在家の人達には「お互いに愛せよ、妻子を愛すべし」と説かれ、出家した人達には「妻子に対する愛着から離脱すべし」と説かれた。これは在家と出家と分かれている以上仕方がないことであった。

 
ここで私は、高橋信次先生が言われたことをお伝えして置きたい。
 「園頭さん、インドの時は出家しないと法が説けなかった。僕がインドの時、一番心に掛かっていた事は、妻ヤショダラと、子供のラフラに対してすまないと思う思いであった。インドの時は仕方がなかったのである。インドではバラモンがあって出家が尊いこととされていた。しかし、神理からいえば、出家というのはやはり異状であって、本当は当り前の家庭生活をしていて、それで法を説かなければいけないのである。今度、日本に生まれる時に天上界で、実はインドの時のヤショダラに「お前、日本に一緒に生まれてくれないか」と頼んだのだ。そうしたら「私はインドの時にこりごりしました。今度は休ませて下さい」というのだよ。それなら仕方がないということになって今の家内の頼んだのだ。正法というものは、自分が正しい生活をしながら説かないといけないのだ」
 高橋信次先生のこの言葉の意義は大きい。


 インドから中国を経て日本へ、その間、仏法を伝えて来られた沢山の僧、また仏法の求道者達は、出家された釈尊、三十二相を備えられた礼拝の対象とされてしまった釈尊を理想像としてひたすらに精進して来られたのである。日本の坊さん達が、男女夫婦の役割について説かれなかったことも無理もない。女人禁制として、女は信仰には無縁の存在として、いやそればかりでなくむしろ業の深い存在として扱われて来た事については、女の人達は永い間不満を持って来られたであろう。

 考えてみると、今から二千五百年前、釈尊がクシナガラの地で入滅されてから世界は、男性中心の戦国時代に入る。戦いを中心とした封建社会は、否応なしに男性中心の社会とならざるを得ない。女が刀を擔(かつ)いで戦場を駈け廻る訳にはゆかない。女は家庭に引き籠って男の生き方のままに翻弄され従って生きざるを得ない。男性中心の封建社会で男性が生き抜いて行くためには、学問も男性中心のものとならざるを得ない。正常でない封建社会の中で法を伝えてゆくとすれば、やはり、男子から男子へとならざるを得ない。

 明治維新が天上界で計画されたのは寛永二年であったという。明治維新がなぜ計画されたのかといえば、徳川幕府の下では自由がない。男女共に自由を与える為には一ぺんまた天皇制に還さなければいけないということで計画されたという。本当は明治維新で男女の自由が完全に得られる筈のものとして実現されたのだが、維新が実現してみると封建時代の道徳がそのまま残り、完全な男女の自由は与えられずに、日本は神国思想に凝り固まって、全世界が理想世界となってゆくためには、日本は世界各国から孤立するような愛国思想は除かなければいけない、ということで大東亜戦争もまた天上界で計画され、日本は敗戦することによって初めて男女平等の自由を得させるということになり、敗戦して混乱した日本を収拾するには偉大な徳を持った人を日本の天皇として生まれさせて置かなければならないということで、菩薩界の方であり、紀元前二八六年にマガダ国王として即位し、仏教を全インドに広められたアショカ王を日本に生まれさせるということになって、大正天皇の皇太子として生まれさせるということになった。それが今の天皇陛下でいられる。


 
そうした準備が天上界で計画され、その通りに実現し、大東亜戦争が敗戦ということになって完全な自由が与えられた時になって、昭和四十三年、高橋信次先生は、自分が過去世に於いて、インドで釈尊として生まれていたことを悟られたのであった。

 「園頭さん、僕はインドで四十五年間掛かって説いたことを今度は七年間で全部説きつくした」
 「僕が説いたことを一から十まで、よくわかっているのは園頭さんだけだ」

  と言い残されて昭和五十一年(1976年)六月に高橋信次先生は昇天された。



 
原始仏典に残されている男女夫婦の倫理と役割については今まで書いてきた。原始仏典に残されているものは、出家という立場で説かれたものである。

 「正法は、自ら家庭生活を持って説かなければならない。インドの時は異状だったのだ」といって、この度、高橋信次先生という名を以て出生された嘗(かつ)ての釈尊は、今回は家庭を持って男女夫婦の倫理と役割をどのように説かれるのであろうか。次号からはそのことについて書かなければならない。

 言って置きたいことは、高橋信次先生が説いていられる女性像にまで到達するには、現在の女性の意識がまだまだ高まって行かなければならないということである。

 釈尊即ち高橋信次先生は、言い替えるならば「偉大なるフェミニスト(女性崇拝者)であった」ということである。

 これまで世界の哲学者思想家達が「男女平等論」を唱えている。日本では左翼思想にかぶれた女性運動の思想家達が「男女平等」を唱えてきた。高橋信次先生即ち釈尊の女性論を知られるならば、その人達の男女平等論が如何に次元の低いものであるかが分かられるであろう。

 この中で、私は青春時代「処女の純潔に合うて、誰が魂を浄化せられざる者あらむや」ということを思って来たと書いた。キリストは「不信仰なる夫は、信仰ある妻によって魂を直くせられるのである」と説かれた。私は女性が、もっと女性としての生命の尊さの本質を知ってもらいたいと熱願するものである。
 釈尊やキリストの本当の女性観を知る時、全世界の女性は全て自分が女性として生まれて来たことを幸せだと思わざるを得ないであろう。この世で働き疲れた夫達は、その疲れた心と身体を優しい妻の傍(かたわ)らで癒したいと願うものである。
 世の女性達よ、どうぞあなたの傍らで夫の疲れた心と身体を憩(いこ)わせて下さいと、私は叫ばずにはいられない。




 9.永遠の父性と永遠の母性

 「世の女性達よ、あなたの傍らで、夫の疲れた心と身体を憩わせて下さい」と私は前項で書いた。
 これは私自身のこれまでの夫婦生活の体験からの叫びであり、同時代に東洋と西洋とを問わず世界の全男性の心からの願いであると思っているし、それが正法実践の道である。

 婦人公論にある人が『「この妻が死んでくれたら」とか「この夫が死んでくれたら」とか一度も思わなかった人は居ないのではないかと思う』と書いていた。死んでくれたらとは思わなくても「この妻の下から」「この夫の下から」逃げ出したい、そうして別な新しい生活をはじめたいと思った人は多いのではなかろうか。実際にそれを実行して蒸発する人達がいる。愛が憎しみに変わる時、人間は心の中で色々な事を想像する。しかし良心があるために、或いは刑を恐れて心に思った通りには実行出来ない。「どうせ結婚するんだったら、もっと素直な優しい妻と結婚するんだった。こんな、我の強い、ヒステリックな、人の心の優しさも理解できない女と結婚して自分は失敗した。今さら別れる訳にも行かないし、こういう女を一生喰わして養って行かなければならないのか」と「女房の不作は一生の不作」と言う諺を実感として感じている夫も世には多いだろうし、またその反対に「夫の不作は一生の不作」と嘆いて、わずかに「今さら子供を捨てる訳に行かないし」と、夫によって満たされぬ思いを子供に託して悲しく生きているという妻も多いに違いない。「夫婦生活とは我慢の連続である」とか「忍耐の連続である」と言っている人もあるが、確かにそういう面もある。お互いが自己主張をして譲らなかったらいつも喧嘩ばかりでそういう夫婦生活は絶対に永続きしないであろう。どんな夫婦でも、結婚以来一度も我慢しなかったという人はないであろう。

 私は昭和四十八年三月、高橋信次先生に帰依した時、これまでの自分の人生を偽らずに反省した。死んでくれたらと思ったことはなかったが、妻と二人の子供を置いて逃げ出したいと思ったことがあった。


 もし、心をそのままに映し出す鏡があったとしたら自分でそれを見て自分の心の醜さあくどさに驚かない人はないであろうし(この世を終わってあの世に行くと、それを見せられるのであるが)
もし、みんな人の心が見えるものであるとしたら、まともに人の中を歩ける人は一人もいないであろう。

 その頃どうして妻の下から逃げ出そうかと考えていた。「こんな我の強い女を・・・」という思いもあるにはあったがそれよりも強く私の心を苦しめたのは「こんな立派な女をとても自分は幸せにし得る力はない」という思いであった。妻の前に出ると、私は自分がみじめで仕方がなかった。立派であれば何も別れる必要はないではないかと多くの人は思うのである。しかし、当事者にしてみれば、表面立派だという姿の裏に夫の心をみじめにさびしくさせる何かがあるのである。夫の心が満たされない何かがあるのである。夫は、その何かがこれであるとはっきり口に出して言えないのである。それを言えば、尚一層妻から軽蔑されると思うから尚言えないのである。言えないだけに察してほしいと願うのである。

 夫が一人でいて、ふと吐息を洩らしたら、また、隣に寝ている夫が、もう寝ていると思ったのにふと溜息をつく夜があったとしたら、夫は心の中で「こんなことを口で言わせるような惨酷なことはしないでくれ、言わせないで、このわしの心をわかってくれ、わしの願いを叶えてくれ」と、胸が張り裂けるような切ない思いをしているのだとわかって欲しい、と思うのである。心の優しい、思いやりの深い、心の襞(ひだ)の細かい妻は直ぐにその夫の心に気づくのであるが、立派過ぎて、しっかりしている、自我の強い、自己本位の妻はその夫の心の動きに気がつかないのである。夫の惨めな切ない思いとは別に、妻が増々立派になると夫はその結婚生活に絶望的になり別れようと思うのである。

 男の悲しさは、男が心に抱いている優しい思い、切ない思いを、そのまま優しい言葉で表現出来ない事である。もし、そうするなら、益々妻から軽蔑されるであろうと思うから、その思いがそのまま言葉にならないと同時に、これまでの永い間の封建的な男尊女卑の生き方に制約されて、夫は妻に哀願出来ないのである。
 だから、いうとすれば、これまでの永い間の世の中のしきたりに従って、心に思っている思いとは全く違った強い言葉と態度でしか表現出来ないのである。すると、夫の心の内面の優しさに気づかない我の強い気の強い妻は、夫の表面的な強い言葉と態度によって増々心を固くしてゆくのである。その妻の頑なな心と態度によって増々夫は悲しみを深くするが、それはまた妻に対しては強い言葉でしか表現されないという悪循環を繰り返してゆく事になる。別れるだけの勇気を持たず別れることは社会的に色々な面で損であると悲しく思い諦めた夫は妻に妥協してゆくことになる。

 女心を理解しない頑固な夫に嫁いだ妻はまた、女であるがゆえになお一層悲しく思い諦めて夫に従ってゆくことになるのであろう。中には夫の横暴に敢然(かんぜん・思い切ってするさま)と立ち向かって成功したという人もいる。夫が「この妻とはとても一生は・・・」という思いを持つと同様に妻は「とてもこの人には一生頼れない」という思いを持つのである。

 私達は夫婦喧嘩がすんだ後、それも四年も五年も経ってから、あの時はどういう考えであったか話し合った。本当は仲直りした直後すぐやれば良いと思うのであるが何か照れくさくて、それにお互いの欠点を、相手に対するその時の不満を言い合わなければならないのであるし、そんなことを再現しても、どちらももう心を動揺させいがみ合うことはないという完全な理解(愛とは相手に対する完全なる理解である)に到達するには、私達には四、五年という年数が必要であった。


 私が妻を「自分には立派過ぎる」と思ったのはこうである。

 復員してみたら両親も弟妹も全部死んでいた。米軍による大空襲で鹿児島市は殆んど焼け野原になってしまった。昭和二十年六月十八日夜である。ついでにこのことも書いて置こう。その頃、私は中国広東省順徳県大良市にいた。マカオ近くにいて、決戦に備えるためにそこへ集結した。既に正月には日本は無条件降伏するというニュースがマカオから流れて来ていたから、私達は広東市を中心としての南支派遣軍の一大決戦の日を覚悟していた。ある晩、私は、上下の歯が全部抜けて、口の中で小さくジャリジャリになって、とても気色の悪い夢を見た。ハッと目が醒めると身体は疲れて寝汗をかいていた。歯が欠ける夢は身内の者が死んだ夢だということを聞いていたことがあったので「もしかしたら」と思ったが、まさか鹿児島が空襲を受けることはあるまいと心の中で否定した。それから数日経った。その夢がやはり気になって仕方がなかった。広東で発行している中国新聞が手に入った。見るとそこに「米軍の大空襲で鹿児島市は壊滅した」と書いてある。もしかしたらみな死んでいるのかもと思ったが、人間誰しも自分が不幸であるとか不幸なことは思いたくない。田舎には親戚もあることだし、出征する時既に父は糖尿病で寝たっ切りであったからそうなる前に田舎に疎開していたであろうと、良い方へ思い直していた。

 復員してみたら現実となっていた。妻だけが一人、実家の母の看病に帰っていて助かったのであった。帰る家もなくなってしまった。妻の実家に身を寄せるしか仕方がなかった。肩身の狭い思いをしながら世話にならなければならなかった。食糧事情の悪い時であり、農地改革があり、小作地を全部手放して義父も六十才になって初めて農業をすることになった。それまでは大きく商売をやり、その土地ではチョットした名士であったから自分で農業したことはなかったのが、六十才になって初めて鍬を持って農業を始めたのであるから辛かったに違いない。私も初めて義父を手伝って農業した。慣れない仕事であるしそれまで力仕事をしたことがなかったから少し腰をかがめて仕事をすると腰が痛くなって、身体は大きくても義父程にも仕事が出来なかった。「身体ばかり大きくて、たったそれだけしか仕事が出来ないのか」と言われると、出来ないながらも精一杯やっているだけにその言葉が情けなかった。両親が生きていてくれたら・・・・・・とまたしても思うのであった。

 義父も初めて農業をするのだし、食料はないのであるし、私が働き甲斐がないことが歯痒かったに違いない。そのことは充分に分かりながらも、出来ないながらも精一杯やっているだけに思いやりのない言葉が辛かった。人間は弱り目の時、失敗した時など叱られる言葉よりは励ましの優しい言葉が欲しいものである。農具の扱い方が分からずについ壊したりするとまた叱られるのであった。

 会員の人でよく「私を叱って下さい」「何でもずけずけ言って下さい」という人がある。
 しかし、私は叱らない、言わない。それはこの時の叱られた時の辛さ、づけづけと心の中にまで踏み込んであれこれ言われた時の悔しさ、悲しさが身に沁み込んでいるせいかも知れない。あまり悔しく悲しいと、夜、月を仰いで泣いたこともある。どんな人にでも、優しい励ましの言葉をかけて上げられるような人になりたいそう思うようになったのは義父のお蔭かも知れない。

 義父の為に、出来る限りのことはやってきたが長女が生まれて来ると、ただ食べさせて貰うだけということでは子供の必要な物も買ってやれないし、自分で生きて行く道を探さなければならなくなってきた。両親や弟妹達が死んだ防空壕のあった鹿児島の土地へは住むに耐えられなかった。

 義父と叔父の協力によって未利用資源製粉工場を始めた。昭和二十三年、政府は食糧不足を解消するため、食べられる物は何でも食べようという姓策を決めた。サツマイモの茎を乾したもの、キュウリやカボチャの茎を乾したもの、よもぎの乾したもの等、それを高速度粉砕機で粉にして、メリケン粉に混ぜてパンにしたり、麺にしようと言うのである。政府の許可を貰って始めた。製粉にして食糧事務所に納入するのである。一年近くやっている内にアメリカの小麦が放出されて少し食糧事情も良くなりかけ、未利用資源の製粉は家畜飼料に回すということになったので、新しく機械を入れて昭和二十五年から製粉製米製麺向上に切り替えた。面白いように儲かった。設備を増やした。困った人にはタダで製品を上げたり食べさせたりした。

 その頃、私は生長の家に熱心であった。講師を招いて講演会を開いた。費用は全部一人で出した。生長の家には 「無限供給の法則]という教義がある。「神はこの自然をタダで人間に与えていられる。与え放しである。それが愛である。報いを求めずに与える事である。呼吸も吸ってばかりいたのでは息が詰まってしまう。吐くからまた吸えるのである。食べる物でも、口から入れるばかりでお尻から出すことをしなかったら糞詰まりになって食うことが出来なくなる。食うためにはお尻から出さなければいけない。出せば入るのである。大いに出しなさい」

 今になると智慧が足りなかったと思うのであるが、その頃は全く疑うことをせずにそのまま信じていたから「出せば入るのだ」と気前良く私は出した。一人でも沢山の人を喜ばせるとその喜びは自分に返って来るという谷口教祖の言葉を信じてその通りにやった。入った金は困った人のためにみな出した。出した後で戦後第一回の税金攻撃の槍玉に挙げられた。これは同業者からの中傷投書に因るものでもあった。分不相応の税金だと思ったがしっかりした帳簿を付けていなかった為にそれを反論することが出来なかった。日頃は助けられましたと言っていた人も金を貸してはくれなかった。ついに滞納で差押処分を受けた。「出せば入る」と信じて私と同じように失敗した人が沢山いる。

 工場からの収入だけでは間に合わなくなり、都城市の戦前の得意先に出掛けて品物を融通してもらって一週間ばかりの間に税金分を稼いだ。父が残してくれた信用のお蔭であった。
 都城市からの帰途、私は車中で妻に対しては苦労を掛けるだけで何もしてやっていないことを思い続けていた。鹿児島駅の近くの易居町に行って大島紬の着物を買った。着物のない時分で易居町一帯は古着店が多かった。新しい物はスフで着ればすぐ破れ、靴下なども一ぺん穿くと穴が空いて穿けなくなったから、新しい着物よりも丈夫な古着をみなが喜んで買った。その頃、大島紬など着ている人はなかったが、母が私が二十才になった時、大島紬の上下の揃いを作ってくれて紬の良さを知っていたし、これなら妻も何を貰うよりも喜んでくれるであろうと、喜ぶ顔を想像して帰って妻の前に出した。包みを開けて「ああ、こんな高いものを・・・」と喜んでくれることを期待していた。それが私のせめてもの妻に対する愛の表現であると思った。

 包みを開いた妻は喜ばなかった。つつっと私の前に押しやると、ぶすっとして「こんな物を買う金があるなら税金を払って貰えば良かったのに・・・」全く予期しなかった冷たい言葉に私は腹が立った。払わなければならない税金があることは充分に承知の上で、苦しいけれどもその中から、これまでの妻の苦労に報いよう。これだけ買ったからといって税金が払えない訳ではないと、充分に計算した上でのことであったが、妻は私の優しい思いやりを少しも理解しようとはしなかった。

 ともかくその頃、私の工場で働く女工さんの月給が九円であった頃の五万円という税金である。とてもその当時としては大変な金であった。どっちみちそれだけの税金を払わなければならないのであれば、大島紬代の三十五円という金はどうにでもなることであったし、苦しくてもここで愛の印として形に現わして表現して置くことは、これからも共に苦労をしなければならない妻へのいたわりであり、また、共に苦労をして欲しいという心からの願いであったが、女というものは、全てを男に話させなくとも男の心を判ってくれる優しさを持つ者であるという先入観、それは女への買いかぶりであったかも知れないがそういう心を持っていた私は、生来の口下手もあってそういう気持ちを何も話さないままに「おい、いいものを買ってきたぞ」と言っただけで妻の前に差し出したのであったから、差押の白紙を張られて税金のことで「夫はこれだけの大変な税金をどうするんだろう」と心配していた妻にしてみれば、それまで困った人があると何でもかんでもくれてしまって後のことを考えない人の良い夫を「これでは一生頼りにならないかも知れない」と思っていただけに、ホイホイと何でも買って来る夫の気の良さがいささか不安にも感じられてそう言ったのであった、ということはそれからずっと後になってその時のことを話し合って分かったことであったが、しかし、折角の心遣いを素直にどうして受け入れてくれないのか、男心の優しさをどうしてこの女は判ってくれないのか、という思いが一瞬起きて来て、その時、私は「この妻と別れて、もっと男心のわかる女を探そう」と思ったことがあった。今でも「男心の優しさが判らない妻は愚妻である」と思っているが、女に言わせれば「妻の夫を思う心のいじらしさが判らない夫は愚夫である」というであろう。

 私達夫婦の間にひびが入ってしまったのは、私が生長の家の教えをそのまま信じて「出せば増える」と、儲けた金も全部人にくれてしまったことにあった。私が施しをしたからといって、いよいよ私が税金で困った時に誰一人として「そんなに困っていられるのなら」と言って金を貸そうという人はなかった。私が盲目的に信じてしまったのが間違いであって、妻の判断が正しかったのであった。

 この事は私に経済生活のバランス(調和)の大事さを教えてくれた。
生長の家の「無限供給の法則」「人のために出せば増える」という収入と支出のバランスを全く考えない繁栄の法則を信じたがために失敗してしまったという人は非常に多い。信仰生活といっても経済の調和を大事にしなければいけないという考えはこの時に持った。

 
そうして高橋信次先生に昭和四十八年に帰依した時に「信仰には、心と肉体と経済の調和、健康が大事である」と教えられた時に「ああ、これが本当だ」とすぐその正しさを理解できたのであった。

 そのことがあるまで、私は、特に鹿児島は男尊女卑の風の強い所であったし「女は黙って男について来ればいいのだ」「女は男のすることに口出しするな」という封建的な考えを強く持っていたのであったが「夫は妻のいう事を素直に聞かなければいけない、妻は夫のすることを冷静に客観的によく見ているものなんだな」ということを知ったのであった。

 信仰する人達の陥りやすい欠点がある。
 それは、経済生活に失敗すると「まあ、金は損しても、心の勉強をしたからいいじゃないか」と安易に逃避してしまう事である。例えば「あの人は信仰に熱心だからと思って金を貸したが、結局返してもらえなかった」というような時、後になって、人に金を貸す時は社会の慣習と法律の定める所に従って賃借関係は明確にして置かなければならないということに気づく。また交通事故などあると「大難が小難で済んで良かった。信仰していなければ死ぬ所だった。信仰のお蔭だ」といって、事故を起こさないようにするにはどうすればいいかという、当然前もって注意しなければならないことを勉強せず、何時も問題が起こってしまってから後手々に物事を考えることが欠点である。それは
「信仰していれば何事も良くなる」という間違った他力信仰の欠点である。

 
釈尊は「苦しみの原因は無明にある」と言われた。「無明」とは「知るべきことを知らない」即ち「智慧がない」ということである。いくら神仏を念じても、自動車の運転方法を知らなかったら、ただ信じているというだけでは自動車は動かない。経済には経済の法則がある。いくら信仰していても、経済、経営の法則を知らなければ失敗するに決まっている。だから、正しい信仰即ち正法を信ずる人達は、前向きに積極的に、人生に必要な諸問題についてはどしどし勉強して実践して行くのである。即ち自力で勉強することは勉強し、実践することは実践して、その上で天地創造の神を信ずることである。

 他力信仰で、信じていれば何でも良くなると拝んでばかりいて、人生に必要な勉強はせず、何時も問題が起こってから後悔し、事前に知っていれば損害も損傷も受けずに済んだのに、これだけの損害、損傷で済んだのも信仰のお蔭だといっているような信仰は正しい信仰ではないのである。正法を信ずる人達は常に前向きで明るく積極的である。他力信仰の間違った信仰をしている人達は、逃避的で暗く消極的である。

 私が妻に対して「夫の優しい心を理解しない出来過ぎた女だ」と思って、一時的にしろ
 「こんな出来過ぎた立派な女とは別れたい」と恐れを感じたのは私が間違った信仰をしていたからであった。
 妻にしてみれば、五万円の税金を早く払って差押の白紙を剥がして心を楽にして貰いたいという私に対する愛があるからこそ、「そんな着物は欲しくない、大島紬を着て、身を飾るような時でもない。そうする気にもなれない。早く税金を払って楽になって下さい」といった訳であった。

 永い夫婦生活の間には、お互いの考え方の違いから、どちらもがそれぞれ正しいと思っていながら考え方がずれて喧嘩することがある。お互いに譲らないで遂に別れるという人もあれば、すれ違ったままで一生を淋しく暮らすという夫婦もあるし、それでは何のために生きているのかわからない。

 一時、喧嘩して「こんな夫(妻)は死んでしまえ」と思ったり、また「別れたい」と思ったことはあったとしても、
お互いに相手の気持ちを理解し(それが愛である)自分一人では成し遂げられない魂の成長をしてゆく所に人生の意義があり目的があり、そこに真の人生の喜びがあるのである。
 
前もって如何に良く知ろうとしていても、全てを知り尽くすということは出来ないから時には失敗するのもまた人生である。大事なことは同じ失敗を二度としないということである。失敗を失敗のままで終わらせないということである。

 夫と妻とが、人間的に成長してゆくために心得なければならない大事なことがある。このことを知らない為に世の多くの夫婦は悩むのである。この事が分かったら、世の多くの夫婦の問題も、またそこから派生する子供の問題もみな解決してゆくであろう。

 それは何か。

 良く「女は母となって完成する」という言葉が使われる。女は結婚をして子供を持ち、母親となることによって女としての人格は完成されてゆくというのである。しかし、それはそうであるが、それだけではまだ足りないのである。
女が女として完成されてゆくためには「妻は、夫にとっても母とならなければならない」ということである。

 なぜか。・・・ それは、夫というものは、男というものは、絶えず心の奥底に「母なるもの」を追い求めている存在であるからである。その「母なるもの」は、自分を産んでくれた母親でもあり、またその母親を含めた母親としての全体的な母親の理想像でもある。

 母親が生きている時は、夫の心はその母親によって満たされる。しかし、その母親と遠く離れて住む時、またその母親が死んでしまってもういないという時、夫は無意識の内に妻の上にその母親の姿を追い求めているものである。会社で上役にひどく怒られたという時、また失敗をした時など「お母さん」と言って妻の膝の上に泣き崩れて慰めてもらいたいという衝動に駆られる夫は多いのである。子供が喧嘩して泣いて帰って来て「おかあちゃん」と言った時、母親は何と言って子どもを慰めるであろうか。
 
魂が傷ついた時、人はその慰めを求める。慰められた魂は勇気を得てまた外に向かって前進する。悲しみを、苦しさを、自分独りで耐えなければならないことはつらいことである。正法を知っている人達はどんな事にも耐えて、なお明るく生きてゆく道を知っているが、まだ正法を多くの人が知らない現在の段階では人は慰めを外に求める。妻のその慰めを求めようとしても得られない時、夫の心は苦しむ。




 10.なぜ「おっ母さん」といって死ぬのか ・ なぜ「瞼の母」というのか

 
「瞼の母」という言葉はあるが「瞼の父」という言葉はない。
 
我が子を愛しない父というのはいないのであるから「瞼の父」という言葉があってもよさそうであるがその言葉はない。

 「瞼の母」という言葉は長谷川伸:作:「瞼の母」番場の忠太郎が生みの母を求めて旅鴉になる。その人が自分の母に間違いないと知って訪ねて行く。しかし、その母は既に再婚して娘があった。突然息子だと名乗られても、それが夫に知れると現在の幸せが吹き飛んでしまうことを恐れた母は、心の中では「我が子だ」と知っても「自分にはそういう子供がいたことはない。人違いだ」と言ってしまう。忠太郎はさびしく去ってゆく。「瞼を閉じりゃ、おいらのおっかさんは、いつもここにあらぁ」忠太郎は天を仰いで涙を流す。「瞼の母」の映画や芝居を観て涙を流さない人は居なかった。今、こういう映画を見たとしたら、今の若い人達も涙を流すに違いない。

 人の心の奥底深い所から、止めどもなく涙を流させる「瞼の母」というその「女」なるものは一体何者なのであろうか。「母」ということを思う時、私の心から離れることがないのは戦地で「おっかさん」と死んで行った兵隊のことである。

 昭和十四年三月の南昌作戦が、私が小隊長としての初陣であった。武漢作戦後、武昌の近くの王家店に駐留していて二月に行動開始、九江の南の箸渓に集結、私の連隊は南昌攻撃の助攻方面として武寧を攻撃することになった。武寧の敵第一線陣地の攻撃は、軽爆、重砲、野砲、軽装甲車、工兵を加えての全くの模範的な陣地攻撃であった。私は初陣であった薩摩の刀工波平行周:作の名刀を振りかざして突撃した。突撃体勢に入る為敵前五十メートルに前進した時「危ない」と、私は狙撃されようとしているのを直感した。位置を移動した瞬間に弾丸が飛んできた。敵が弾丸を発射しない前に私の直感はそれを知っていた。直観は大事にしなければいけない。突撃は成功した。一人の負傷者も出なかったが、その夜、敵の逆襲で戦死者が出た。「おっかさん」と言って死んだ。「天皇陛下万歳」と言っては死ななかった。その兵隊の火葬をしながら私は考えた。「なぜ、おっかさんと言って死んだか」と。

 私は内地を出征してからその日までの自分の心を振り返って、自分の心の中に起こった、父への思いと母への思いを思い出す限り思い出してみた。母のことは毎日思い出して懐かしんでいたのに、父のことを思い出すことの少ないことに驚いた。父親という者は、かほどまでに子供からは思い出されることの少ない存在なのであろうかと思うと、もし戦死せず無事に内地に帰ることが出来たら結婚をして、やがて父とならなければならないことを寂しく思うのであった。申し訳ないと思うのであるが、父への思いは少なかった。そのことが、
私が父となった時に「母親に劣らず、子供からも多く思い出される父親でありたい」と思う事になった原因であり、父親という者は、子供に厳しく躾をしなければならないと同時に、子供に奉仕しなければならないのであると思った原因である。子供の記憶の中に、父親との楽しい思い出を一つでも沢山つくって置くことが子供をも幸せにすることだと思った。戦争は終わった。復員した。戦地であれ程までに思った父も母も、そして弟も妹も空襲で死んでしまっていた。子に奉仕する父親でありたいと思っていた私に子供が生まれた。家族の全てを亡くしてしまった後であっただけに子供が生まれることは嬉しかった。人は、それは極端すぎるというかも知れない。しかし、私は、事実は事実として書かない訳にはゆかない。

 生まれた子供が女の子だと聞いた時、私はその子がやがて嫁ぎ行く日のことを一瞬の間に思った。誰がこの子の夫になるのか、それは分からない。嫁ぎ行くその日まで、その子が結婚して幸せになるように育てなければいけない。結婚して、夫たる人の気に入って、夫に喜ばれるような女に育てることが親の責任であると思った。母親には母親としての、同じ女であるという立場においてのわが子への願いがあるであろうが、私は父親として、夫に嫌われるような女に育ててはならないという気持ちがあった。よちよち歩けるようになり、いい着物や洋服を着せるととても喜んだ。終戦後の何もない時、そのデパートで戦前からの物でたった一枚残っていたという全部刺繍の可愛い服を買って着せた。四つになり五つになり、やがて小学校へ行くようになり、そこはかとなく女らしいそぶりを見せたりして一人前に育ってゆく娘を見て、いつもその娘の嫁ぎ行く日のことを思っていた。親の手許にいるのももうそう永くない。やがては親の下を離れて行かなければならない娘であるから、せめて家にいる間に可愛がって置こうという心があった。私は娘が生まれたその日からそういうことを思って来たのであったが、それは極端だという人でも、娘が段々大きくなるにつれて何時の時にかわが娘の姿の上に、やがて嫁ぎ行く日の娘の花嫁姿を重ねて見たことはないという父親はいないであろうと私は思う。どこの父親も、娘に対しては甘いといわれるのは、父親の心の中にはそのような思いが秘められているからではないであろうか。

 娘に対しては甘いといわれる父親が、息子に対しては厳しいといわれる。いや現在では息子に対しても甘い父親が増えて来た。それは終戦後、民主主義ということで「父親は厳しくしてはいけない。子供と友達とならなければいけない」と教えて来た日教組の先生達や、そういうことを書いたマスコミの罪である。この頃のように暴力非行問題が起こってくると、マスコミは一斉に「父親の躾が甘いからだ。父親が家庭での権威を失っているからだ」と書き立てている。マスコミの主張には一貫性がないのであるから、マスコミが書くことをそのまま信ずることは危険である。父親は息子と遊ぶ時は裸になって遊ばなければいけない。

 しかし、
父親としては厳しい躾、教育、人生に対する男としての気構えを教えなければならない責任がある。父親は息子に対しては甘いばかりではいけないのである。何故なら、男の一生というものは甘いばかりでは決して生きられないからである。

 心の中では嫌いだと思っている相手とであっても喧嘩せず、仲良くとまではゆかなくても調子を合わせて仕事をしてゆかなければならない。社会的な制約、会社の規約、あるいは不文律の慣習などあって、この世の中は決して自分一人の思うようになる世の中ではない。耐えなければならない時には耐えなければならないし、辛抱する時は辛抱することなしには生きられないということも沢山ある。成功すると思っていたことが失敗することもある。女もそうであるかも知れないが、男の生きて行く道には耐えてゆかなければならないことが多いことは、父親が自分自身の体験から一番よく知っているはずである。私は事業に失敗してこれからどうしようかと思った時、これが自分一人だったらどんなにラクに現状を切り抜けることが出来るであろうかと、妻子がいることをうとましく思ったことがある。成功している時はそうでないが失敗した時は妻子が重荷に感ぜられてくる。だからといって妻子を捨てて逃げ出す訳にゆかないのである。(中にはそういう男もいないではないが)

 息子の一生が必ずしも順調であるとばかりは限らない。色々な苦労に負けてしまっては男として一生を生きられないのである。長男が生まれたのは私が三十四才の時であった。私の三十四年という人生においても色々な苦しいことがあった。私はその苦しさに耐えて生きてきた。だから息子には、娘とは全く違ってどんな逆境にも負けない、どんな環境からでも逃避しない人間に育てなければいけないと思ってきた。しなければならないことをしていなかった時には叱った。めそめそしている時も「そんなこと位でどうするか」といって叱った。私は私自身の生い立ちの貧しさを隠さずに話をした。男の子供に対する私の眼は、いつも、妻子を背負って立ち向かって行く子供の未来に注がれていた。息子達は、父親である私の優しさを感じている反面に私の厳しさを見ている。

 子供のことで苦労しているという親は「自分の小さい時のような苦労は子供にはさせたくない」と思って子どもを甘やかした親であるはずである。

 
苦労することは決して恥ではない。苦労することによって魂が向上することが多い。恥ずべきは、苦労を恥だと思うその心の在り方である。何も自分から苦労を求める必要はないが、起こってきた苦労から逃げ出せば自分の負けであり一生をメチャメチャにしてしまうのであるから積極的に苦労を乗り越えてゆかなければならない。自分の小さい時のことを考えて「子供には同じような苦労はさせたくない」と考えている父親は、自分の小さい時と子供のことばかりが頭の中にあって、その息子が生きてゆかなければならない一生に眼が注がれていない。すなわち思慮の浅い父親が暴力非行の子供をつくってしまうのである。きちっとしなければならないことをきちっとさせること、子供自身に出来ることを子供自身にさせることは、それが愛であって、そうさせないことは子供を愛しているようであって実際は子供を不幸にしているのである。

 昔の父親は厳しかった。最近は母親の方が厳しいという子供が増えて来た。その母親の厳しさもまた日常茶飯のことだけであって子供の一生に注がれていない。注がれていると強弁する母親もいるであろうが、それは母親の思う通りの学校へ行かせようという子供の心を無視した一方的な母親の欲望からである場合が多い。

 
母親は娘に女としての生き方を教えるべきであるし、父親は息子に男としての生き方を教える責任がある。
家庭の中で父親の影が薄くなって母親が強くなってくると、娘は女としての間違った在り方を学ぶことになるし、息子は男としての生き方を学ぶチャンスがなくなってくる。男としての力強い生き方を学ばされないだけでなく、母親に甘やかされるから、優しいかもしれないが自分からは男らしく積極的に何かをしようというたくましい男にはならない。


 あるツーリストの人が、新婚旅行で、行き先を決めたり、旅行先でいつも先に立つのは女で、十組の内七組が女性上位であるという話を聞いた事があるが、そのように、いつも女性にリードしてもらわないと何もできないという男性が出来上がってしまうのである。

 父親が自分で満たされなかったものを息子によって満たそうとする場合がある。例えば、自分は高校だけしか出ずに苦労したからせめて息子は大学までは出そうとか、自分が成功しなかったことを子供にやらせようとか、或いは自分の跡を継がせようとか、そういうことを思っている父親はやはり息子を厳しく強く育てようとするであろう。しかし、どうするかは子供の自発性を第一にしないと、後になって「したくないことを強制された」といって反抗的になる場合がある。

 最近の一部の愚かな父親を除いて、常識的な普通一般の父親の眼は、息子の一生に注がれているはずである。だからこそ父親は息子を厳しく育てよう、どんな困難にも負けない立派な男にしようとして叱ったり怒ったりするのであるが、父親が厳しく息子を育てようとしていることに対して反対する母親がいる。妻に対する不満を、妻にはよう言えずに子供に向けて発散する父親がいるがこれも夫として父親としては最低である。この場合に叱り方は感情的で、子供が同じことをしても、ある時は何にも言わないのにある時は顔色を変えてということになるからよくわかる。そういう時をも含めて父親が息子を叱る時には激しく夫を憎む妻がいる。それは「こんな夫と一緒になるんじゃなかった」とか、とにかく夫に失望し、失望させられている妻である。期待していたようには夫が出世しなかったというように、夫によって欲望を達せられなかった妻は、夫によって満たされなかったものを息子によって満たそうとして、息子に必要以上の期待をかける場合がある。こうなると妻の心は夫から離れて子供の方に注がれてゆく。そういう家庭が多い証拠には、大抵の中年の夫達が「自分は家庭に中では孤独だ」「家内と子供がグルになって俺をのけ者にしている」と愚痴っているのを見ても分かる。

 妻子の幸せの為にと一生懸命に夫達は働くのに、夫に孤独の淋しさを味あわせてそれで平気でいられる妻の心の恐ろしさを私は嘆かずにはいられない。家に帰っても満たされぬ心のわびしさ、さびしさを笑いにまぎらわせ、酒にまぎらわせている。ピエロのような夫。顔で笑って心で泣いて、男であるだけに涙を見せられない男のつらさを、なぜ心優しいといわれるそれが天性であるべき女がどうして理解してやらないのであろうか。

 「うちの子は、私がいないとさっぱりだめなんです」といって息子自慢をしている母親がいる。その母親は、その息子がいつまでも「お母さん、お母さん」と言ってくれるであろうと思っているがそういう訳にはゆかない。やがて、愛し信じ切っていた息子からその母親は裏切られ捨てられ泣かされるのである。小さいうちはよい。しかし、その息子がだんだん思春期になり、女というものを意識し出すようになり、そうして結婚の相手を選ぼうというような頃になると、母親が父親にとっては悪妻であったことに気がつく。「あんな気の強い、優しさの欠けた女は貰いたくない」と、今まで「お母さん、お母さん」と言っていた母親を軽蔑して、母親の傍に行かないようになり、母親が近づくと怒ったりするようになる。中には母親を殴ったりする者もいる。そうして父親に同情するのである。しかし、父親との対話は簡単には出来ない。父親と息子との間に割って入った母親によって父親と息子の対話は永い間中絶している。父親は父親なりに孤独な心を守って家族を近づかせまいとする。また近づこうとしてもそれを避ける習慣が身についてしまっていて、自分でも不甲斐ないと思う程で対話が出来なくなってしまっている。
 母親に失望し母親を軽蔑しているとはいっても、母親に去勢されてしまった息子は自分では何にも出来ない。永い間母親にやってもらっていた習性があるので、選ぶとすれば母親のように何でもかでもやってくれる女性を無意識の内に選ぶことになる。このようにして母親を忌避している息子は母親と似たような女を妻として選んでしまって似たような気の強い嫁と姑とが、一人の男性を中にして争うということになる。

 息子に、優しい心の嫁を貰ってやろうと思うならば、母親が優しくなることである。自分は夫を軽視していながら、嫁にだけは息子を大事にして貰いたいと望んでも、この世界は「類は類をもって集まる」という世界なのであるから、自分に似たような嫁しか来ないのである。




 11.夫はなぜ自分の妻を「かあちゃん」と呼ぶのか

 最初はお互いに名前を呼び合っていた夫婦でも、子供が一人でき、二人生まれして来ると夫は子供が「かあちゃん」「おかあちゃん」と呼ぶからという訳でもないであろうに、いつの間にか自分の妻を「かあちゃん」と呼んでしまっている。これは夫自身もどうしてそう呼ぶようになったのか、気がつかないうちに呼んでしまっているのである。「ママ」と呼ばしている所では「ママ」と呼んでいるのかもしれない。

 私もまた、いつの間にか妻を「かあちゃん」と呼んでしまっていた。結婚当初、私は他の鹿児島の男性と同じように自分の妻を「おい」とか「こら」とか呼んでいた。名前を呼ぶのは何か気恥ずかしくて、女にデレデレしているみたいで呼べなかった。それがいつの間にかしら、何時の頃からだったのか気づかないうちに妻を「かあちゃん」と呼んでいた。

 そしてある日、妻を「かあちゃん」と呼んでいるその言葉の響きの中に、生みの母の姿を求めている事に気がついてびっくりした。

 講演の旅を終わって家に帰って行く。玄関を開けると子供達が「お帰りなさい」と出て来る。私はその子供達の姿の後ろに妻の姿を求めている。「かあちゃんは・・・・・・」とつい言ってしまう。帰った時、妻が玄関に出て来た時のほっとした安らかな気持ちにひきかえて、妻の姿が見えなかった時の何となき心の寂しさ。それは小さい時、学校から「お母ちゃん」といって帰った時、母が居た時の嬉しさに比べて、母が居なかった時の悔しいような寂しいような腹立たしいような、何とも言えないあの心と同じであった。男というものはかほどまでに母を恋しくも思うものであろうか。であればこそ、妻も子もある男が、いまわの際に「おっかさん」と母の名を呼んで死んでゆくのであろうか。頭は禿げても、歯は欠けても、男が心の中で求めているものは母の姿である。
母が健在である時はよい。その母と遠く離れて住んでいる時とか、また、母が死んでしまった時、男は自分の妻の上に母の姿を追い求めるのである。

 男の世界は厳しい。上役に叱られ、同僚や部下に足を引っ張られ、自分の責任でもないのに誤解されて叱られることもあればまた侮辱されることもある。時には上役の頬ぺたの一つも殴って会社を辞めたいと思う事があっても、そんなことをしたら妻や子供を路頭に迷わせると思うと、男は必死に涙と怒りを堪えて我慢するのである。あるいは、上手く行くと思っていた仕事が全く失敗してしまったということもある。得意の時は得意の時で妻の喜ぶ顔を早く見たい、早く妻を喜ばせたいといって帰りを急ぐものであるが、そうした失意の時、失敗の時程妻の慰めを求めてしおしおと男は家に帰るのである。
 日頃から夫の心を良く察している理解の深い妻は、夫の顔色や態度を見て、夫を励まして夫の心をねぎらう術を知っている。妻によって慰められた夫は気持ちを取り直してまた翌日は元気で出掛けるのである。夫はこのような思いやりの深い優しい妻を不幸にする事だけはしたくないと思うのである。ところが自我の強い、我儘な、自分本位の考え方しかしない思いやりのない妻は、夫の職場や外での色々な苦労を思いやることなど毛頭なく「別にあんな不景気な顔をしなければならぬ原因もないのに、何をあんなにふさぎ込んでいるのであろう」と、夫が必死に世の中の辛さに耐えているのも知らずに勝手に夫が塞いでいると思ってしまうのである。妻に失望した夫は「こんな女の為に何で働いてやるものか」と思うのである。そうすることは自分にとっても損だと思うのであるが妻と別れられないのは仕方がないとしても「この女を幸せにはしたくない」という思いだけはつのるのである。そういう心が夫を失敗に導くのである。また妻が余りにも虚栄心に満ちていると、その妻の虚栄心に引きずられて良くないことに手を出して失敗することもある。

 正法を知っている人達は、人生は魂の勉強であることを知っているから夫の魂を傷つけるようなことは言わないが、物質欲や名誉欲や虚栄心などにとらわれている妻は、そういうものだけで夫を評価するから夫はそれに耐えられなくなってくる。「犯罪の陰に女あり」というのは本当である。しかし、世の中にはどうしようもないという男もいるがそれは稀であって私は今この場合、普通の常識的な一般的な夫婦を対象にして書いているのである。

 
夫の心の奥底に潜む、夫自身さえあらわには知らない切ないまでに母を思う心、この心を満たしてやるのは、妻が母になる以外にない。

 妻は子供のためだけの母であってはならないのである。夫にとっても母となり、夫が母を慕うその心を満たしてやらなければならないのである。妻が唯単に、子供の母としてだけ、夫に仕える一人の妻としてだけであったのではその妻を、可愛いとは思うがそれだけでは夫の心は満たされないのである。もし何かあったとしたら私に任せて下さいと言ってくれるような頼り甲斐のある、あたかも子供が母親を頼りに思うような頼もしさを夫はいつの間にかしら妻に求めているのである。そうして、良い所も悪い所も、全てひっくるめて夫を温かく包んでくれる母のような妻を夫は心の底で望んでいるのである。夫の良い所を認めることもなく、欠点だけを言い立てるような妻であったとしたら、夫は家に帰っても心が安らぐことがない。
人が求めているのは心の安らかさである。妻の前で心が安らかでないと、その夫はどこかで何かで心の安らかさを求めて妻を悲しませることになるであろうが、夫の心を安らがせることのなかった妻は、夫がそうしたことが自分の責任であったことには気がつかないのである。

 男は外で職場で、何かあった時、思いっきり泣きたいと思うことがある。思いっきり慰められたいと思うことがある。しかし、男はそれが出来ない。もし妻の前でそんなことをしたら、妻から軽蔑されると思い、また、妻にだけはこの様な辛さは味あわせてはならないと思うから、そういうことがあった時程かえって何事も無かったかの様に振舞うのである。しかし、賢明な妻は、かねてとは違った夫のそぶりから敏感に夫の苦労を知って夫の心を休ませるのである。

 私が事業に失敗して収入がなくなった時、妻は何にもいわずに自分から働きに出て少ない収入に何一つ不平も言わずに家事をやってくれた。そのことがどれ位有り難かったことか。私は心の中で手を合わせて感謝した。その時の妻には後光がさしていた。

 「こんなはずじゃなかった」「こんな金では生活できない」「全く甲斐性がない」など妻に言い立てられたとしたら、そんな妻の前で平気でいられる夫は一人もいないであろう。怒って妻を殴り倒すか、黙ってその妻から逃げ出すであろう。

 どこの家庭でも年老いた夫は老妻に世話を焼かせる。老妻から何と言われようとも少しも気にせずに言われるが儘に動いている。年老いた夫は、年とともに子供に帰ってしまう。老妻が居なくなると淋しくて仕方がなくなる。仲の良い老妻は夫のことを「手の掛かる孫だ」という。

 
夫が、男が、心の中で求めているものは「永遠の母性」である。女は、妻は、夫にとっても母となった時その人格は完成されてゆく。男は、夫は、妻の内なる永遠の母性を頼りに生きてゆく。

 私は男であるから、男としての立場を書き過ぎたかも知れない。戦前はこんなことは聞かなくても多くの女性は母となって人格を磨いて行った。健気な妻が多かった。
 終戦後は民主主義ということで男女平等ということばかりが強調されて「母となる事の大事さ」は全く説かれなくなってしまった。この文章を読んで、初めて男心というものがわかった。女が母として生きることの大事さ、女心というものがわかったという女の人があるはずである。


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 正法誌五月号の「男の役割と女の役割」を読まれたある方から次のような手紙が寄せられた。

 「私は高橋信次先生にお目にかかり、突然、心を開いて頂き、父をはじめ一族お救い頂いた者でございます。信次先生懐かしさの思いだけでこれまで一年余り正法誌を読ませて頂いておりましたが、毎月の正法誌によってどれだけ心を救って頂いているかを今になって改めて感じさせて頂いております。信次先生の遺された教えを守っていれば、心の指針は失ってはいないはずだと思っておりましたのに、自己中心の高ぶった心は常に揺れ動き、正法誌にふれると正常に戻る状態でございます。夫を尊敬出来ないばかりか、軽蔑の思いに満ち満ちて、離婚まで考えておりましたが、五月号の正法誌によってその間違いに気づかせて頂きました。この出来の悪い女を、一言の文句を言う事もなく耐えてくれていた夫こそ、天上界の使いの方かも知れません。これまで夫から悪く言われまい、言われまいとばかり思い、優しい心を掛けること一つせず見下してばかりおりました。恥知らずとは私のことだと思います。現在は心も安定して、生きてゆく希望が湧いてくる思いが致します。本当に正法誌のお蔭でございます。感謝の心の一端を記させて頂きました。本当に有り難う御座いました」

 この様な喜びの手紙を頂くと、私も正法誌を出して本当に良かったと嬉しくてならない。
 この七月号ではまた喜んで下さる方が出て来るであろう。

 この手紙の方の夫のような人を「永遠の父性」を備えた人という。

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男が、夫が、妻に求めるものは「永遠の母性」であるが、女が、妻が、夫に求めるものは「永遠の父性」である。妻が夫にとって良き母とならなければならないと同じように、夫は妻にとって良き父とならなければならない。 夫は父となってその人格は完成されてゆく。

 
妻がどんなことを言おうと、どんなことをしようと、妻を愛する夫は父となって妻のすることを赦している。
 父が娘を可愛がるのと同じように、夫は父となって妻を愛してゆく。

 妻はその夫の頼り甲斐を感ずればこそ、そこに頼もしさを感じて心を憩わせる。妻がどんな失言をしても、それを笑って過ごす夫に妻は頼り甲斐を感ずる。妻の言う事に一々目くじらを立ててあげつらっているような夫は、賢い夫だとは思うが何故か夫に頼り切れない不安が残る。妻が母となって夫の過ちを赦すと同じように、夫は父となって妻の過ちを赦さなければならない。過ちを赦された妻は、その夫をどんなにか尊くありがたく思う事であろうか。


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 職場で知り合った男性と駆け落ちしたものの、その男性に捨てられて困っている妻を迎えに行った夫の話を聞いた事がある。

「頼って行った男に捨てられたあの妻は、腕に職がある訳でもないのに、これから永い先の一生をどうやって暮らしてゆくであろうか。あの妻の疲れた心を憩わせ、安らかな心を持たせることが出来るのは自分以外にはないであろう。自分から逃げた女を迎えに行ってと軽蔑されるかも知れないがそれでもいい」その人は妻の全てを赦したという。その人は永遠の父性を自覚していたのである。

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キリストの祈りは「天に在します我らの父よ」という言葉で始まる。一切の罪を赦すのは父である。夫は父となって妻を守り妻の全てを生かし妻の全てを赦さなければならない。妻が夫の心を憩わせなければならないと同じように夫は妻の心を憩わせなければならない。

 
人間は、ある時は男に生まれ、ある時は女に生まれて父となり母となりして、神の性である永遠の父性と永遠の母性を体験して人格を完成してゆかなければならない。男性的ではあるが女心の優しさは分からないという男性はまだ男性としては未熟であるし、女性的ではあるが男心の逞しさが充分に分からないという女性もまた女性としては未熟である。

 神の心をそのまま知ることが出来た方を如来というのであるが、如来の持ち賜う慈悲は、永遠の女性から生まれたものであるし、如来の智慧は、永遠の男性から生まれたものであり、如来が智慧と慈悲とを一身に兼備していられるのは、神が智慧そのものであり慈悲そのものであり賜うからである。人は男心も女心も良くわかるようになってゆかなければ人格を完成することは出来ないのである。

 
家庭生活とは、夫婦が単に調和するだけでなく、夫は女心を良く理解し、妻は男心を良く理解して、ともに人格(実際は神格の顕現)を完成してゆかなければならないものである。妻は夫をして、子供達だけの父とならしめるだけでなく、自分にとっても良き父たらしめる(そのようなこと(存在)にさせるという意)べく夫と話をしてゆかなければならないし、夫は妻をして、子供達だけの母たらしめるだけでなく、自分にとっても良き母たらしめるべく妻と話をしてゆかなければならない。

 
男と女と、夫と妻と、父と母と、この間にたゆとう(ゆらゆらと揺れ動いて定まらないという意)愛の心の不可思議さを、余す所なく味わい尽くして行く所に人生の喜びがあり、人格の完成がある。何と不思議な人生であることよ。神の摂理の不思議さに私は哭(な)く。

 今生は今生で、尽くさなければならない愛を尽くさなければならないと思うし、来生は来生でまた愛を尽くさなければならない。限りなく愛を尽くして神に至るのである。


 人間は、永遠の父性、永遠の母性となるべきことを知った時、釈尊が説かれる男女の道、結婚生活の在り方もまた良く理解できるのである。私がこの様な事を書いたのは、釈尊の教えを良く皆さんに理解して頂きたいがためである。


- 完 -

月刊誌 正法 
    第31号(1981.03月)/第32号(1981.04月)/第33号(1981.05月)/第35号(1981.07月) より




 

2013.07.28 (日曜日)22:37 UP

 

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12男の役割と女の役割-2

高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします 男の役割と女の役割 - 2 ・・・・・ 釈尊の教えから  1.原始キリスト教団と原始仏教教団の共通性  2

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